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第十二章  (*結)             

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第十二章  (*結)             

投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:04 pm

 1 イノセンスよさようなら (Ⅰ) 


もし、われわれが暴力をやわらげたいなら、
それをその問題に釣り合ったレベルで処理しなければならない。

たとえば、テレビは犯罪者(culprit)である、という共通の叫びを取りあげてみよう。
この論法のもっとも騒がしい代表は、精神科医のフレデリック・ヴェルトハムである。
 彼は、
暴力は「社会的に条件づけられ、社会的に防ぎうるもの」
 マスメディアこそ暴力の拡がりに責任がある、
 (*なぜなら)マスメディアは、子どもたちをして暴力的に思考させ、
 人びとをして暴力に慣らさせ、競争的で無感覚な、かつ暴力を生き方として受け容れる
 「冷酷な」アメリカ人の世代を創るのに(マスメディアは)役立っているからだ、
という。

この論法は、
暴力というものは比較的最近アメリカの状景の中に入り込んできたのであって、
五〇年前にマスコミと一緒に生まれたものである、
という仮定に立っている。
 暴力の問題はアメリカにはずっと存在していた。
ごくわずか残っているインディアンの一人に尋ねてもよし、
辺境開拓者のだれかに尋ねてもわかることである。
ヴェルトハム博士は、ベトナム戦争はもはやテレビでは取材し取り上げられない
という意見だろうか。悪いのは、まさにテレビではなくて戦争そのものであり、
マスコミはわれわれに一つの鏡をかざしているのである。
 ヴェルトハム博士のような議論をする人たちは、自分たち自身の破壊性について、
仕合わせなことに、イノセンスでおれるように、その鏡を壊してしまうのであろうか。

ヴェルトハムの論法は、もしそれが
テレビの持っている「受動的」性格 に向けてなされるなら、説得力のあるものになる。
というのは、
着実に、テレビを見ることが食事のように日常化してしまうことによって、
自分自身がテレビを見ている人間であることを忘れ、
テレビを見る人をさらに傍観する人間を養っているからである。
このようにして、テレビはほんとうにインポテンツの感情を養うかもしれず、
しかもこのインポテンツは十分、暴力を育てるのに役立ちうるのである。


                                                                                                                (2009-09-04 21:23:17)


最終編集者 kusamura [ Wed May 20, 2015 11:19 pm ], 編集回数 5 回

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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:05 pm


 1 イノセンスよさようなら (Ⅱ)

 暴力は一つの症候である。
その病気はさまざまの形をとるが、
それは、無力感であり、無意味感であり、不公正感を抱く ということである
―自分は人間以下であり、私はこの世界に寄るべのない
(homeless)という確信である。
好都合なように手短に言うため、私はこの病気をインポテンスと呼んできた。,,
この病気にその根底で打撃を加えるには、われわれはインポテンスを扱う必要がある。
理想的には、われわれは、
自分もまた重要なのだ、自分は仲間にとって大事な人間なのだ、
自分はどうでもよい汚らしい場所に、人にあらず
(non person)として追い出されない
と感じうるように、権力を分有し分配する方法を見出さなければならない。

この権力の分配がどのようにして可能か。
どのように暴力を緩和しうるかについて、一つの例をあげたい。

1967年オクラホマ大学で新しく学長に任命されたホロマンは、
大学再構成のために23人の委員を設けた。
これには学生も含まれており、それは名ばかりの代表ではなく、
学生も含む委員の意見は、教育プロジェクトの本質部分を構成していた。
ケント州に銃撃沙汰が生じ、カレッジや大学を暴徒が席捲したとき、
オクラホマ大学も大騒ぎを起こしたが、暴力はなにひとつなかった
学生たちが暴力沙汰に陥らなかったのは、
学生たちを再建のための不可欠な要員に加えたからである。
それは権力の分配であった
―それは温情主義なものではなく、当然の正統なものとして配分されていたのであった。
 彼ら学生はインポテンツではなかった。
彼らは大学の方針についての正統な発言権を持っていたのである。

(*正統=訳文ママ)


最終編集者 kusamura [ Wed May 20, 2015 11:27 pm ], 編集回数 2 回

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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:20 pm


 2 もし私にものが言えたなら (Ⅰ)

 権力はコミュニケーションを成立させるために必要な物である
無関心な、あるいは敵対するグループの前に立ち自分の言いたいことを言うなり、
あるいは友人に(*対して)深刻な人を傷つけるような真理を正直に語るためには、
自己確信や、自己主張、そしてときには攻撃性さえ必要である。
(私の、長年の精神分析の経験に基づいて言うと)
最大限の勇気を必要とする行為は、
心の底を他人へ素朴に(*怒りに駆られることなく)
忠実にコミュニケート(*伝達)することである。
一般にわれわれは、
権力の点で同等なものに対してのみ、
もっとも大ぴらに話し合い、通じ合えるのである。


 暴力それ自体、ある種のコミュニケーションである。
彼らは舌で訴えることができないので、暴力に訴えるのである。
しかし、たとえそれが未発達なあるいは原初的なものであるにせよ、
なおある条件下では適切だし、ほかの条件下では必要な言語である。

 アフリカの黒人たちが暴力的なのは、
彼らがコミュニケーションに必要な自尊心を持ち合わせていないからである。
植民者とのかかわりあいにおいて、
彼らは、立って自らの感情を述べることができないのである。
事実かれらは自分の感情をコトバに出してはっきり言うことができず、
自分たちの実際に感じているものが何であるのか自信がないのである。
植民地白人たちが利益のためにアフリカ人を喰いものにすることから心を離し、
黒人の権利に人間の権利としての関心を持つや否や、
たちまち暴力はやわらげられてゆく。 

 


最終編集者 kusamura [ Wed May 20, 2015 11:27 pm ], 編集回数 2 回

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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:22 pm


 2 もし私にものが言えたなら (Ⅱ)


ビリー・バッドが、
「もしクラガート(*ビリーの上官)に話すことができたなら、彼を殺してはいなかっただろう」
と船上裁判で言ったとき、何を言うつもりだったのか。
クラガートに口に出して言えなかったコトバとは何であったのか。
明らかに、それは単なる語らい
―即ち、意味のないおしゃべりであり、(*それは)
人びとを恐怖から離すために空虚さを満たすものである。
この種の語らいは、慰めの役や力を回復させる働きをする

精神療法では、
ある関係にいる男とその妻が直面している困難が、どの程度のものであるかは、
お互いにコミュニケートするのにどのくらい困難を感じるか によって測ることができる
ことがわかっている。
他人が何について語っているか(あるいは語っていないか)を
理解するのがむずかしいとき、われわれは疎隔感を覚える。
そのとき、その人間は、たんに他人の波長に合っていないのである
(あるいは合わせようと欲しないのである)。

知性化することあるいは抽象的に話すということは、同じことがらの一つの症候である
―つまりそれは、自分のほんとうの感情をコミュニケートしたくないという願望であり、
トータル・セルフを阻止することである。

敵意が成長するにつれ、投影もまた増大する。そして主張が多くなり、
隔たりが拡がってくる。これらはすべて敵意の増大を示すものだ。
われわれはほどなく暴力の段階に達するであろうことを知っている。

精神療法は、同じ波長で話しうるようにそのプロセスを逆転させることである。
たとえ二人が離婚を決めるにしても、すくなくとも、両人で一緒に決めることである。
そうすればそのプロセスにははるかに共有する部分が多い。




最終編集者 kusamura [ Wed May 20, 2015 11:30 pm ], 編集回数 1 回

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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:29 pm



 2 もし私にものが言えたなら (Ⅲ)



 コミュニケーション(*相互伝達)は、新しいレベルで、
人間の根源的な「われわれ性」
(we-ness)を恢復させてくれる。
真性のコミュニケーション(相互伝達)というものは真性の言語に依存する。
ほんとうの語らいというのは器官的なものである
―話し手はコトバだけでなく身体でも話すのである。
彼は肉体を離れた声として話すのではなく、一個の器官総体として
もう一つの他の器官総体に話しかけるのである。

 われわれは、他人の価値の認め、相手を語りかける価値ありと考え、
自分の考えをはっきりさせるよう努力する価値ありと考えないなら、
コミュニケートしようとはしないのである。
これは相手を見下すことのない、
恩着せがましいことのないコミュニケーション行為である。
コミュニケーションには、アルフレッド・アドラーが
「社会的関心」
(social interest)と呼んだところのものの存在が前提となる。
他人に興味をもつのは、
われわれがその人の言うことに耳を傾ける価値ありと判断するからである。

われわれが他人とかかわりを持つのは、
自分の性欲を受け容れてくれるもの、
あるいは自分自身の孤独をやわらげるために利用できるものとして、
どちらにせよ、一対象としてではなく、
人間として受け容れられるためであることを意味する。

このコミュニケーションからコミュニティが導き出されてくる。
つまりいままで欠けていた、理解、親密さ、相互評価が出てくる。

 コミュニティとは、単純に、
そこでは自由な会話の起こりうるグループとして定義されうる。
コミュニティとは、自分の内奥の思考を分かちあい、
自分自身の感情の深みをさらけ出し、それがお互いに相手にわかってもらえるということを
知りうる場所である。
今日、コミュニティは大いに求められている。その理由の一部は、
われわれのコミュニティ体験が蒸発してしまい、われわれは孤独であることによる。

コミュニティは、自分自身の孤独を受け容れることのできる場所であり、さらに
克服できる孤独と免れがたい孤独との間を区別してくれるのである。

私は自分のコミュニティに敵を必要としている
敵は私をして、油断させず、生気づかせてくれる。
私には敵の批判が必要なのである。

また、コミュニティは、自分を支えてくれる仲間に依存できるグループであって、
それは部分的にはつぎの点で自分の身体的勇気の源である。
つまり、
自分は他人を頼りにすることができることを知った上で、
他人もまた自分に依存できることを私は保証するのである。

コミュニティは、私自身のコミュニティの構成員に対立することから成っている。
私の道徳的勇気は私が対抗している人びとによってさえも支えられるのである。



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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:35 pm



 3 愛と権力


プリシラ(*第一章_腹を立てることができなかった女性)は、
自分の故郷で自殺した男のニュースを聞いて、
もし「一人でも彼を知ってる人物がいた」なら彼は自殺をしなかったであろう
と、私に語ってくれたことがある。
彼女は、その男には自分を打ち明けられる人がおらず、
彼に注意を払ってくれる人がいなかったことを述べていたのだと思う。
彼には、共感、つまり自尊心の元であるような共感
持ってくれる人がいなかった、ということである。
彼は、自分を、一掃されることのないほど価値ある者、と考えることが
できなかった
のである。
  
彼女はまた、
知るということと愛するということの間に線を引くことはできない、と述べている。
もし私がだれかをよく知っているとすれば、
私は彼に共感を持つようになっていく。
しかも私は相手に対し共感を抱いているなら、相手をよく知ろうと務めるであろう。

これは(*裏返すと)、嫌いな誰かが話しているときに、
その人に耳を傾け、自分の耳にすることを理解し、心の中にわかりやすい構造として
自ら形を整えて行くことが不可能に近い理由である。
その傾向は、自分たちの耳ではないにしても、心を閉ざすことであり、
自分の嫌いな人を阻止することである。


 権力の発達は、コミュニケーションのできる前提条件であるとともに、
共感の前提条件でもある。 ,,
共感に必要なことは、われわれが安全保障をもつことであり、
そこから、他人へ関心を払うことのできるある権力、ある立場にたつことである。
自尊心や自己確信が欠けていたのでは、
何かを他人のために取っておく ということはきわめてむずかしい。
個人は、他人に与える前に、呼び水を入れるような何かを
(*自分の中に)持たなければならないのである。


共感とは、われわれがお互いに知り合い理解することを基にした、
愛の形態に名付けたものである。
「われわれはだれもが孤独なのである
 ―われわれは孤独であるがために
 お互いにあわれみ合うことを学んできたのである。
 しかも、われわれは
 共感以外に発見さるべき何も残っていないということを学んできたのである」
                    
                       
    (J・ブロノウスキー)

また、共感はわれわれに
だれかを当人を非難することなしに判断する基盤を与える。
敵を愛するということには雅量(grace)を必要とするが、
敵に対する共感は、人間にはできることである。



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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:37 pm


 4 新しい倫理をめざして (Ⅰ)


われわれの新しい倫理,,それは意志
(intention)の倫理である。
それは、各自が自分自身の行為の「結果」に責任を持つという仮定に基づいている。

ビリーバッドに見られるほんとうの
悲劇的欠陥がなんであったかを今や述べることができる。
即ち、
老水夫ダンスカーがビリーに対し、
クラガートの敵意が燃え立ってきていることを知らせる努力をしたにもかかわらず、
ビリーは、クラガートに対して自分が与えた結果を
自ら認めようとしなかったことである。

ビリーは当人自身のイノセンスを守り通そうとした。
事実彼のイノセンスは、正確にはこの残酷な認識にたいする防御
――自分の幼児性を養い育てるための盾であった。
この無認識のため、ビリーはクラガートを殺すことになり
その結果、自分は絞首刑を余儀なくされたのである。

(*無実な非戦闘員を射殺するよう命ぜられたベトナム戦闘部隊)
罪に対する善の勝利は、ミイライにヘリコプターで上陸させられ、
もしカレイ中尉が大虐殺を続けるなら
彼を撃つ身構えで中尉に銃を向けた、例のアメリカ兵のような人の中に示されている。

人類の未来は、
人類連帯の中にいることを意識しながら一個人として生きることのできる、男性ないし女性
とともにある。
今までわれわれは、一方あるいは他方(*連帯または個人)を実践するように教えられてきた。,,
個人主義を誇示する場合には、われわれ自身の完全高潔さによって生きることができる。
連帯性を誇示するときには、われわれの代わりに決断を引き継ぎ、
それ自身のルールに従って決定する集団ないし党とわれわれ自身を同一化することができる。

いずれの道をたどるにせよ、他方を無視するなら、それはわれわれを誤りに導く。


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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:42 pm



  4 新しい倫理をめざして (Ⅱ)


人間の「無制約な潜勢力」(unlimited potential)(*無限の可能性)というのは、
しばしばわれわれの耳にするコトバである。
しかもわれわれは、できるだけ「それを充足する」よう厳命されるのである。
その間違いは、
潜在力をそれがあたかも全然無制約のものであるかのごとく、
生命過程が絶えず「前進と向上」のものであるかのように
扱っていることにある。

われわれが毎日もうすこしづつ進歩することによって「善」くなってゆく、という幻想は
技術から密造されたドクトリンであり、
適合しないが倫理上のドグマになったものである。
現代人は倫理的にソクラテスやギリシア人より優れてはいない。

人間存在がよろこびと悲しみの双方であるということを知覚することは、
人間の意志の効果に対する責任をひきうける前提条件である。
私の意志はときには悪になるだろう。
しかし私は、それをあなたに投影するよりもむしろ、
私自身の一部としてそれを受け容れるために
私は最善をつくさねばならないのである。

 成長は倫理の基本にはなりえない。
というのは成長は善であるとともに悪であるからである。
日ごとにわれわれは老衰と死に向かって成長している。,,ガンはひとつの成長である。
 

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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:45 pm



4 新しい倫理をめざして (Ⅲ)


キリスト教倫理は『旧約』の初めにでてくる
眼には眼を、歯には歯を」という正義の体系から進化したものである。
その後、キリスト教およびヘブライの倫理がその焦点を内面的な態度に移し
愛の倫理は究極的には、理想的な戒め、「汝の敵を愛せ」にまで
その規範を拡げてゆくのである。
,,それは、ラインホルド・ニーバーのコトバを借りれば、
「恩寵」にでもよる他は現実の意味では決して実現されない「不可能な可能」である。
―私にとってヒットラーを愛することは恩寵を求めることである―
目下のところその恩寵を適用したいという気持もない。

恩寵の要素がオミットされてしまうと、
汝の敵を愛せという戒めは道学的なものになってしまう。
それは、個人が自分自身の性格に働きかけることによって、達成される状態として、
また道徳的努力の結果として唱道されるのである。
そのとき、われわれはきわめて違った何ものか、つまり
過度に単純化された倫理的な見せかけ、という仮定的な形態を持つのである。
それは当人の現実的認識を阻止するとともに、
社会改良に向かって進みうる、実際に向かって進みうる実際に価値ある行為を妨げる
あの道徳的な美容体操法
(moral calisthenics)へと導く。

宗教上のイノセントな人物や「蛇の智慧」を欠く人は、それに気づかず
かなり有害なことをなしうるのである。



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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:55 pm


4 新しい倫理をめざして (Ⅳ)

 もう一つのことは、
現代のキリスト教倫理は、とりわけ過去五世紀のうちに、
ルネッサンスに生まれた個人主義と提携するようになってきたことである。

それは、次第に、自己閉鎖的な誠実さ
(self-enclosed integrity)という
孤独な状況の中で、勇敢に屹立する孤立せる個人の倫理となってきたのである。
自分自身の確信に対し真実であることが強調された。
それは、とりわけ
アメリカのセクト的なプロテスタンティズムについて言えることであり、
フロンティアにおけるわれわれの生活によって養われてきた個人主義に
強力に助けられてきたものである。

その後また、自らの人格的発達が強調された。
この人格向上発展はつねに道徳的内容を持っているように思われる。
ウィルソンはこれを「人をして他人に対し不寛容にする性格」と呼んだ。
倫理と宗教とは多分に日曜のこととなり、平日は金作りにおとしめられた
―われわれはつねに、われわれ自身の性格を欠点のないものにしておく方法によって
このことをやったのである。それ以来われわれは、
何千人という雇用者を無意識のうちに搾取する工場を指揮する欠点のない人格者
という奇妙な状況をもつことになった。
面白いことに、人格の個人主義的な習慣をもっとも強調するプロテスタンティズムの
形態である根本主義
(fundamentalism)は、
セクトの中ではもっとも愛国主義的であり、かつ戦争好きであり、
どんな形での国際理解にも反対する点でももっとも激烈であった。

この倫理的な発展という考えについての批判の中心は、
いかにも人間的なものである「連帯性」を全然考慮に入れていないことにある。
(*倫理的な発展にとって)いわゆる「群集」というものは、
われわれの道徳的発展にとって対立する対象として
またそれの影響を受けないように自らを訓練する対抗目標として重要だったのである。

われわれは、自分自身の豊富なものの中から与えること、
つまり*十分の一税を与えることによってのみ
他人を助けることに興味を持った孤立せる被造物として
「われわれ自身の倫理的」業績を購入したのである。

しかも、この「人格発展」は
資本主義体制や金作りに進んでゆく習慣に適合しているので、
われわれは、「幸い薄き人びと」と分ち合うという義務を決して忘れずに、
社会的に立ちあがったのである。

欠けているものは、他人への真正の同情であり、
権力を奪われている人びと―黒人や囚人それに貧しい人々の
悲しみやよろこびとの同一化である。
自己-包括的な中産・上層階級とは対称的に、
プロレタリアートに向けられた連帯性へのマルキスト的関心は、
広範な従道者を生んだ。
マルキストが国際主義、兄弟愛、友愛というものを強調したことが、
まさにそうしたものに餓えていた世界の人びとのイマジネーションや感情を
とらえたとしても不思議ではない。



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投稿 by kusamura on Wed May 20, 2015 11:58 pm

  
4 新しい倫理をめざして (Ⅴ)



われわれは、個人の完全性
(integrity=誠実さ)
個人尊重への関心を放棄する必要はないし、また放棄してはならない。

ルネッサンス以来、個人主義的生き方によって獲得してきた物は、
新しい連帯性、
つまり男女を問わずわが同朋のために進んで責任を引きうけるという態度 との
バランスをとるということを私は提案したい。

こうしたマスコミの時代においては、
仲間の要求に対して気がつかないでいることはできないし、
それを無視することはわれわれの憎悪を表明していることになる。

理想的な愛とは対照に、
おもいやる(理解する)ということは人間には可能なことである
――つまり、わが友だけではなくわが敵へのおもいやりである。
このおもいやりの中に、共感や同情や慈善の萠芽があるのである。

美徳は、単に悪徳を後に押しやることで獲られるもの
とわれわれはもはや思っていない
倫理的に見てのぼりゆくその梯子上の距たりは、
われわれがいままでたどってきたものによっては、限定されないものである。
さもないと、善はもはや善ではなくて、その人自身の
性格上のひとりよがりなプライドとなる。

悪はまたそれが善への能力によってバランスがとれていないならば、
退屈で平凡な生気のない無感動なものになってしまう。

実際、われわれは、毎日、善と悪双方に対してより鋭敏になっている。
しかもこの弁証法は、われわれの創造活動に不可欠なものである。



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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 12:00 am



4 新しい倫理をめざして (ラスト)


われわれがどれほど悪を許容できるかは、
自分の偽似的イノセンスをつき抜けてどれだけ前進できるかにかかっている。
われわれが一次元的な思考
(*悪を排除したクリーンな絶対善)を保存している限り、
われわれは、イノセントを申し立てることによって
自分たちの行為をつつみかくすことができるのである。

良心からのこの反-大洪水的逃避(=自分だけ助かるための逃避)は、
もはや可能ではない。
われわれは自分たちの行為の結果に対して責任を持っている。
われわれはまた、こうした結果を認識できるとともに
それらを認識する責任がある。

とりわけ精神療法をやっている者にとってむずかしいことは、
善ヘの能力と手をたずさえて進む彼ないし彼女の
悪への能力が次第に拡大してゆくのを、受け容れることである。

患者たちは、
ほんとうに無力的であるにせよ,,(*無力でいることが無意識の)必要な戦略であろうと
患者自身の無力性を仮定してかかるのがつねである。
(*自分の)権力を直接意識することは、
彼らの生活上の方向づけにバランスを失わせる

自分が実際に他の人たちや私を傷つけうるということは、
プリシラ
(*腹を立てられない女性-第一章)にとっては考えられないことである。
なぜなら、彼女は絶えず他人に傷つけられのるのをつねとしていたからである。

マーシデス
(*第四章-売春経験者)が他人を傷つけることができたのは、
彼女が子どもで喧嘩したりヒステリーになった場合のように
ゲットーの街路で狂気になって働いたとき、
あるいは夫に対して正気を失い気が狂ってしまったときだけである。
しかし狂気やヒステリーは、
正確には、自分が何をしているかを意識していない状態 なのである。

自分が、他の人と同様にネガティブな側面を持つということを自覚し、
デーモン的なものが善悪両方への潜在力(*可能性)の中で働くこと、
さらにそれ(*デーモン)を否認することもできず
またそれ(*デーモン)なくしてはいきてゆけないということを実感することは、
当人にとってかなり利益になることである。
また
人が自分の業績の多くがこの
デーモン的な衝動が生みだすまさにその葛藤と結びついていること
を理解することも、同様にためになることである。
それは、人生は善と悪の混合であるという
体験の場であり
「純粋の」善など何もない、
潜在力として悪がそこにないならば善もまたない、
という体験である。

人生とは、悪を離れて善を成就することではなくて、
悪あるにも関わらず善をなすことである。



     
                                     (了)

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