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第十一章 反抗者の人間性

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第十一章 反抗者の人間性

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 12:04 am





,,人間を構成する肝心の要素,,,
 要するに、それは反抗できる能力である。


多種多様な人間が、不安と頼りなさの状態にとらえられている今日、
自分たちの見せかけの平安を乱すものは、
何人を問わず、われわれわれは冷たくあしらい、
都市の壁から投げ出してしまいがちである。,,
しかしわれわれは、
その反抗者
(rebel)を追い出すことによって、
自分たち自身の生命線をカットしてしまうのである。
というのも、反抗機能は、文化の生き血
(life-blood)として、
まさに文明の根として必要なものなのである。

 まず第一に反抗者と革命家との間を重要に区別しておかねばならない。
一方は、他方に対し根深い対立関係にある。
革命家の探し求めているのは 、極端な政治的変動であって、
ある政府ないし統治者を打倒するなりあるいは拒否することであり、
もう一つ別の政府が今の政府にとって変わることである。

 他方、反抗者は、
権威あるいは拘束に対抗する人であり、
 できあがっている習慣ないし伝統と手を切る人
(『ウエブスター新国際英語大辞典』第3版1961)
 である。


                                              2009-08-29 23:12:36


最終編集者 kusamura [ Thu May 21, 2015 1:02 am ], 編集回数 2 回

kusamura
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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 12:57 am



 反抗者の顕著な特性は、絶えず落ち着きがないことである。
反抗者はとりわけ、内面的な変化や態度や情緒や
自分が忠誠を捧げている人びとの見解の変更をさがし求める。

反抗者はしばしば、一時的な成功や
その成功のもたらす安易さを受け容れることができない。
反抗者はむだな抵抗をして大けがをする。
そして一つのフロンティアが征服されると、反抗者はやがて不安になり、
新しいフロンティアをめざしてどんどん進んでゆく。
というのは、反抗者は
自分を役に立たないものにしてしまう抑制
永遠に受け容れることができないからである。
(原註)《トーマス・ジェファーソンの
    「私は神の祭壇にかけて、人間の心に加えられる
     あらゆる形の暴力に対して、永遠に反抗する旨を誓った」
     という表現は、ほとんど反抗を認めていることを示す合言葉である》

 反抗者は権威を拒否する者としての反抗者という意味通りに、,,
自らおよび仲間にとって決定的に重要だ、と確信している人生観や
社会観のために、反抗するのである。
一切の反抗は暗々裏に何らかの価値を前提としている。

革命家が身の回りに力を集める傾向があるのに対し、
反抗者は、権力を最終のものとして求めるのではなく、
それを利用する才をほとんど持ち合わせておらず、
自分の権力を分け与えてしまう傾向がある。
(反抗者が求めているのは、もうひとつの政治体制ではない。
 それは反抗者の主目的ではない)


反抗者は、
ただ自分の仲間の救済のためだけに戦うのではなく、
自分の個人的な誠実さ
(personal intigrity)を守るために
戦うのである。



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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 12:59 am



 1 文明は反抗者を必要とする


反抗の機能は、
文明のもつ固定された習俗や厳格な秩序を動揺させることである。
この動揺は苦しいものであるけれど、もしその社会が
退屈とアパティ(*無気力、無関心な態度・状態)から救われたいなら避けがたいものである。 ,,
文明はその最初の開花を反抗から得ているのである。

意識が生まれるには個人の対抗意志
(counter will)の行使が必要である。
それは、各自の生活の中で生ずる衝突によって呼び起こされ、
鼓舞され、発達させられるのである。
この衝突によって人は、驚きを強いられ、
自分の持っていることを知らなかった力を頼むことを強いられるのである。

社会は、ある世代では反抗者を犠牲者として殺し、
次の世代ではその反抗者を崇拝する。
ソクラテス、イエス、仏陀、クリシュナなど、
こうした扱いを受けた人物のリストには事欠かず、数限りなく続く。
,,彼らは社会の構造と安定に対し挑戦しているのである。

社会は、その社会の習俗や法律あるいは確立した行き方が
ある程度脅かされるについては寛容である。
もし文明が、成長を肥沃にするためのインプットを何も持たないなら
―ただ確立した道(習俗)だけを進むなら―
文明は受動性とアパティの中で停滞してしまう。



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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 1:03 am




 2 反抗者と社会 - 一つの弁証法 (1)


反抗者は、自己のアイデンティティは尊重してもらいたいと主張し、
社会が抑圧してかかろうとする態度に対しては
自らの知的・精神的な統一を保全するために戦うのである。
反抗者は、彼に向けられる画一主義や適合、あるいは
自分自身の独創性や自らの声を殺せと主張する集団に対しては反対の立場をとる。

人類史を見ても、各個人の生活史を見ても、絶えずそこに進行しているのは、
個人と社会、個人と集団、人間とコミュニティとの弁証法的な過程である。
その弁証法のいずれかの極が無視されるとき、
パーソナリティの貧困化というものが始まる。

だれもが時々、社会をぞっと言わせたいという衝動や、
自分の隣人に暴行を加えたいといったファンタジーを持つことがある。
大いに逆説的であるが、人間が絶えず心的な生命力を維持できるのもこれがためであり
これもまた逆説的であるが、
コミュニティ自体、たとえその暴行
(outrage)を非難しながらも、
その暴行から健康と生命力と新しい成長の糧とを得ているのである。

反抗にはまたその人間の社会が必要である。
言語や概念や他者へ関係の仕方、
全てこれらは、いま当人が反対しているその文化から出てくるものなのである。
(われわれは、文化から学んだそのまさに言語と知識でもってその文化に抵抗する
彼はその社会から立ち上がり、それを批判し、
それを改革しようと試みる人たちと自分自身とを連合させるのである。
ずっといつでも、彼は自分が反対するまさにその文化の一員なのである。 ,,

それは各極が他の極によって存在するダイナミックな関係である。
つまり、一方の極が変われば、
他の極も同じように変わるのである。



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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 1:05 am



   2 反抗者と社会-ひとつの弁証法 (2)


 個人の人格を抑圧するのは、社会の本質である。
,,一方で、社会はわれわれである。

反抗者は、自分の社会が自分を養い育て、
自分にパーソナリティを発展させるための確信を与えたことを実感として承知し、
しかも、社会の拘束に苦しみ、社会が窒息するのを見ている、という点で、
分裂せるパーソナリティである。

反抗者は、社会をコミュニティにしてしまおうと絶えず努力する。
反抗者は機械化せる官僚主義的な傾向に対して、戦いを挑んでいるのである。
これは、そうした傾向それ自体が悪だからというのではなく、それらが
人間を非人間化し、人間の統一を役に立たなくなるまで喪失させ、
人間に侮辱を与えるために最高の近代的なチャンネルであるという理由からである。
反抗者は似たような理由で富裕なるものにたいしても戦いを挑む。
というのは「富の豊かさが権力をむしばむこと、それに共和国の幸福にとっては
富はとりわけ危険なものであることを反抗者は知っているからである」(ハナ・アレント)

 反抗者は,,学校を中途退学したものの中にも見られる。
若者は、非人間化という脅威をまともに感じ、
しばらくの間、反抗者の行動は、
社会の厳格さに対する抵抗であるが、また自分自身を見いだせる時間でもある。
(それは仏陀が山に、イエスが荒野に引きこもったのに似ている。)
,,このように引きこもることによって、
新しいパースペクティブや、
後ほど大へん自分のために役立つかもしれない新しい自己認識に
達することができるのである。

私はヒッピーの人たちと話したとき、次のような印象を抱いた。
彼らの何人かは、ドロップアウトしたその一年そこそこは、
精神病になってしまうのを防いだ、という印象である。
,,しばしばこの中途退学することが、精神分析に似た目的を果たしているのである。
,,彼が、自分自身および自分の社会に対し、新しいまじめな態度を持して、
見かけ上は気楽な放浪の旅からもどってくるということは、ありそうなことである。


 われわれの心理学教科書には、被実験者が指示に「従った」ばかりに、
当人の行為の「犠牲者」を傷つけたり殺すことまであるような数多くの実験に
事欠かない。しかも実験者はその犠牲者が苦痛で身もだえするのを隣室で
ガラス越しに見ているのである。

人間というものは服従の形にも
あるいは植民地の蟻のような組織にも条件付けられる、
と結論してもよいかもしれない。

しかし、同時に忘れてならないことは、
時々、大衆から身を引き離す個人があること、
さらに自らの危険を引き受け、もし必要ならば捕らわれの身になっても
集団に反対する反抗者のいることである。
(*例として[ダニエル・エルズバーグ]が取り上げられている.[1][2]


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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 1:14 am



  2反抗者と社会-ひとつの弁証法(3)


個人と社会との間の弁証法的な葛藤を生き抜くことから、
逃れることはできない。 ,,


われわれには、権威を嘲笑する方法が必要である。
われわれ(*アメリカ人)はハロウィンやエイプリル・フールを持っている。
しかし、われわれは、隣人をおこらせ、
町の親父どもを憤慨させるひそかな夢を水路づけることが必要である
―この興味ある例が身代わりの王様である。
その王は一切の権威が嘲笑されるある奔放な底抜け騒ぎの間に、
殺されることを承知で王位につくのである。

 アメリカ人の生活の中に見られる行き過ぎはディオニソス的儀礼の欠除に
関係あるのではなかろうか。
その行き過ぎのひとつが暴力である。 
探偵もの、ギャング映画の主人公との同一化、禁酒運動後に見られたような犯罪人の神格化
―これら全ては、部分的には
「自分たちの行く手をはばみ、閉じ込めておく社会に対するひそかな復讐の夢」を
発散させるための健全な機会の欠けていることの症候である。
(*現在の日本ではアニメとゲームが西部劇やギャング映画を代行していると思われる)


 反抗者の価値を認めるということは、
こうしたデーモン的な力を建設的な方向に水路づけるという点で、
長い道のりをたどることになる。
というのは、反抗者は
我々他のものがやりたいが敢えてやろうとしないことをやる。
(キリストは、われわれ皆のために活動し、生き、そして身代わりになって死ぬ。)
これが彼を反抗者にしてしまうのである。
そのとき、反抗者と救済者は同一人物であるという結果になる。
反抗を通して反抗者はわれわれを救ってくれるのである。
ここにわれわれは
――文明は犯行を必要とするということ―― 
のもう一つのあらわれを見るのである。



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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 1:20 am



 3 反抗者としての芸術家


パリのノートルダム寺院の屋根の真下の止まり木から横目で見ているガーゴイル
眺めたとき、それに対して驚きと当惑にとらえられない者があろうか。
他の動物を生きたまま食する半ば動物で半ば人間的なこうした被造物、しかも
下の市の広場にいる人の群れに向かって舌をつきだし、軽蔑の表情を石に刻み込んだ
このサタン的な像は、広い日の光の中で腰をおろしてパリを見つめている。
,,それらは、われわれだれにも存在する緊張の表現であり、光と闇、善と悪との間の
弁証法を示しているのである。
こうしたデーモン的なものの表現は、このフランスという国家が
こうした美を発散する大寺院を建設できたという事実に対してきわめて重要なことである。
というのは、こうした彫刻家が行ったように、
われわれの世界を明るくする芸術家は
デーモン的なもとのともに生き、呼吸しているということである。
もし、われわれが、このいずれの世界とも結びつきを切り離してしまうならば、
われわれが美と言いならわしてきたことは不可能になる。


 芸術家はあの十戒の古代的で有力な禁制
(interdiction) に直面する。
汝は自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、
 下は水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない

これは偶像崇拝を禁止する禁制である。
これはまた、古代ヘブライ人に対して向けられた呪術の禁制であり、
砂の上に似姿を描くことで動物ないし人間を支配しようとする原始的な方法を
禁止したものである。

 美術は暴力の代用(substitute for violence)である。
ある人間を暴力に駆り立てるその同じ衝動
意味への飢餓、エクスタシーへの要求、一切を危険にさらす衝動
が美術家を創造に駆り立てるのである。
芸術家はわれわれの中の大反抗者である。
私は,,芸術家の仕事全体が社会の現状
―つまり、社会を平凡なもの、画一的なもの、沈滞したものにする現状
に対する反抗であると言っているのである。
その反抗の本質は
自然および人生についての新しい見方ということにある。

美術家は、創造できる限り、暴力に訴える必要はないのである。

(しかし),,彼ら(*マーク・ロスコアーシル・ゴーキー)その他の美術家の自殺は
多くのことを意味しているかもしれない。,,美術家は実際には、二流の市民であって
ケーキにつける「砂糖の花」で生命の糧ではないのである。




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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 1:28 am



 4 反抗者の限界 (1)



反抗者は仕込まれた拘束のもとで活動していると知ったら、
たいていの人は驚くであろう。

実際、それが反抗者と革命家との主たる相違点なのである。
革命家は、政治的変革に関心を持っているので、
ただ外面的な拘束を経験するのみである。
しかし、
人びとの態度や動機に関心のある反抗者は、内的制限をもっている。

つまり反抗者は、
自分が申し立てる秩序」に内在する境界線によって拘束されるのである。
 その第一のものは、反抗者の見透し(ビジョン)と普遍性である。,,
エゴの陶酔(ego trip)による興奮は、反抗者にとって二次的なものであって、
彼の主として関心のあるのは、自分の見透し(ビジョン)である。
この世界についての見透しのなかには、自分の行為に対する拘束が存在する。
ソクラテスがスパルタと密約をしなかったのは、自らが個人的に選んだ倫理観の
要求に従ったのである。
反抗者は遺恨によって動かされるのを卑しむ。
(現実には、それ(*遺恨)が反抗心を培い、
 自分自身のプライドが傷つけられたという気持を育てる。
 これは十分な根拠のあることだが、本当の反抗心の基礎にはならない)

反抗者は、復讐を要求する権利を持たず、
さらにそれをするだけの時間をもたない。
反抗者の本質的な性格は、
自分の民衆や自分の抱いている普遍的な理想と同一化することによって、
自分自身の特定の傷つけられた誇りを超越できることである。

 もう一つの制限は、反抗者の同情心
(compassion)である。
反抗者の同情心こそは、
まず第一に彼を反抗者にしたてたものの一つである。
反抗者は苦悩し、
この苦悩をめぐって何かをしたいという情熱的な願望を抱いている人びとと
同一化する。
これは、彼の見透し(ヴィジョン)を活気づけてくれる他人に対する自分の
感受性および共感
(empathy)から生ずる。
事実、反抗者はときどき、
自分の抱く理想を普遍的に適用することに没頭してしまい、
自分自身の家族をも無視してしまうほどである。

 さて、われわれと同様、
反抗者は、善悪両方の特性をそなえた人間であることに
変わりはない。
自分の共感能力によって、反抗者は、いよいよ人びとに対し同情的になっていき
-(家族に対してではないにしても)―
人びとをして自分の見透しを形成できるようにする。

 こうした制限はまた、
反抗者の心が他人の心にふれあう、という事実から出てくる。
他の人たちの現実観が彼の現実感を拘束し、鋭利にする。
すなわち、両者間が出会うことによって、
彼らは両者にとって価値ある何かを成し遂げるのである。

これこそ、反抗者にとって対話がかくも重要なものとなる理由である。
(*イエスやソクラテスと人びとや弟子との対話など)
この対話には、もろもろの情動や気質や実際のやりとりの中に起こるさまざまな
目標の一切のからみあいが含まれる。

本物の反抗者は、自分の敵対者全員を黙らせることが、
地上で彼の望んでいる“最後”のものであることを知っている。
敵対者を絶滅することは、反抗者や生き残っているものがだれであれ、
そのものからそのユニークさやその独創性、
およびこれらの敵も人間である以上、彼と共有し、
かつ分かち合うことのできる洞察能力を
奪ってしまうことになる。
,,敵との対話のチャンスを失うことによって、われわれはより貧弱なものになるのである。



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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 1:29 am



  4 反抗者の限界 (2)


 自己実現というような個人的な目標にも、一定の制約はつきものである。

人間の潜在能力開発の運動は、
アメリカで支配的なイノセンス形態を相続してきた。
即ち、われわれはますます立派な道徳的完成をめざして成長してきたのである。

四六時中、善人であろうと努力することは、
人間をして倫理的な巨人にするのではなく、
口やかましい人にしてしまうことになる。

われわれはむしろ、悪と善双方にたいして、より大きな感受性をもつように
成長しなければならない。道徳生活は善と悪との間の対話である。

 とりわけ暴力を理解する上で必要なことは、
われわれ各自の中には善と悪とがあることを意識することである。

  われわれがどこへ出かけようと、孤独の見出されるような場所では
  人間の心情の中には過剰さ(excess)が場所を占めている。
  しかしわれわれの仕事は、それらをこの世界にぶちまけることではない。
  われわれの仕事は、わが内なり、他者の内なるそれら(*過剰さ)と戦うことである。
  反抗、つまり屈服しないという世俗的な意志は,,今日なお戦いの基本にある。

                                       
 (カミュ)

われわれ全ての中に善と悪が存在するいう事実は、
何人をしても道徳的に尊大にさせてはくれない。
何人も、
当人自身の道徳的優位性を主張することはできない。

許しの可能性が生じてくるのは、この抑制感覚からである。






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