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第八章 エクスタシーと暴力

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第八章 エクスタシーと暴力

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 4:39 am



暴力をやわらげる点で
ほとんどわれわれが進歩していない理由のひとつは
われわれが、その中にある、魅力的で魅惑的で、
人をうっとりさせるような要素のあることを、はっきり見落としてきたことである。

国会議員が暴力反対の長い演説をぶつとき、
彼は、子どものとき、自分が消防ポンプのあとを追っかけたり
闘牛の絵に魅せられたりしたことをすっかり忘れてしまっており、
また彼は、事件のまわりに人びとをむらがらせる魅惑と恐怖の
あの奇妙な結びつきを自分もともに体験したことを忘れているらしい。


われわれは、気持の上では、「ひそかな暴力愛好」のことを否定する。
しかしこれはある形でわれわれ全体の中に存在するものであり、
同時に、われわれは自分の肉体でもって暴力を遂行しているのである。

暴力が現に存在するという「事実」の認識を抑制することによって、
(*逆に)われわれは、ひそかに、暴力の享受に耽ることができる。
この抑制は、もし、われわれがこの
「ひそやかな愛好」という現実を認めようとするならば、必ず直面することになる
さらに深い感情のもつれに対する
人間的に不可欠な防御策であるように思われる。

たとえば、あらゆる戦争の発端に、
われわれは急いで敵をデーモン的なもののイメージに変形する。
それから、われわれが相手どって戦っているのが悪魔であるからには、
その戦争が惹き起こす、いっさいのわずらわしい心理的・精神的な諸問題を
自問してみることなしに、戦争関係に移ってゆくことができるのである。
われわれは、自分たちの殺している相手が自分たち自身と同様の人間である、
という考えにはもはや直面する必要がないのである。

私はこうした魅惑し、恍惚とさせるような要素もひっくるめて
「エクスタシー」という用語のもとに総括しようと思う。
,,ギリシア語の ekstasis は語源的には
「自らの自我の外に立つこと」「自我から離れて」いること、あるいは
「自我の外にいること」を意味する。
当人の自我を超えて連れ去る体験や、
伝統的なエゴの境界を越え、ヒンズー教や仏教の瞑想のように、
人の新しい拡大された自我認識を与える体験は、
たとえその強烈さが量的に大きくなくとも、エクスタティックと呼ばれるのである。

美的体験や愛の瞬間(*のように),,価値があるという体験や
こちらの影響ゆえに他人が変わるということを知る、という体験は、
またわれわれに「自分自身を超え」でているという感情、
言い換えれば、それほど強烈でないそういった種類のエクスタシーを惹き起こす。
したがって、私はこうした強烈さのそれほどでない体験に対し
「意味の感覚」(sense of significance)という語句を用いてきた。

暴力がエクスタティック体験と結びついているということは、
同じ語句を両方の意味に用いることに見られる。
われわれはある人が激怒のために「われを忘れている」とか、
また権力に「とりつかれている」と言う。
ここでもまた、エクスタティック体験における自己超越に似た、
暴力による自己超越が起こっている。

さらに、
暴力の中に存在している、全面的に没頭すること
(absorption)も、
エクスタシーの中にはある。
一切のものに対する反動である反知性主義の今日にあっては、
暴力の中に自我を没頭することがとりわけ魅力的である。


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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 4:40 am


たいていのアメリカ人は、個人的な責任感覚によって打ちひしがれている。
(個人の責任を極端に強調すると、
 他人をエゴセントリックに操作することになる。
 これは、真の道徳性を打破し、ただ偽りの意味感覚を与える強迫行為となる)

それは一般の人道主義的な分別に対する責任だけではなく、
我々自身の国に対する固有の配慮からくる責任感でもある。
アメリカ人は、この責任を遂行するに当たって、自分の文化からは
ごくわずかな援助しか受けていない

,,アメリカ人は告解のような秘蹟を何ももっていない。
過去の重荷から解放されるための告白のような儀礼を何ももっていない
(ごく少数の者による精神分析の中で行われているそれ以外は)
その重みの全体は個人の両肩にかかっている。
そして、われわれがすでに見てきたように、
アメリカ人は無力感を覚えている。

人は、
当人に構造を与えてくれるにふさわしい深い文化の背景なくして、
自分自身の道徳的救済に対する責任を担うことはできない。
さもないと、人は、最終的には、
孤立や孤独、それに他人からの分離を感ずることになってしまう。


--------------------------------------------------------------------
,,個人とは対称的な、集団の価値についても述べておかねばならない。
集団は、参加者にとっては、生死に関わる重大な問題を中心に構成される。
いかなる集団にあってもその問題は、その集団の心的中心は何かということであり、
その集団は何に対して忠誠なのかという問題である。




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Re: 第八章 エクスタシーと暴力

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 4:41 am



 1 文学に見られる暴力


死は、人間全てにとって一つの暴力行為である。
われわれはこの人生から強制的に引き裂かれるのである。

死は、つねに一つの可能性としてわれわれの前に控えている。
人生や愛に意味が与えられるのはこの可能性である。
われわれが、自分自身の死に方や死の時を
あらかじめセットできるようにどれほどはかない望みを託すにせよ、それとは無関係に、
死の恐怖にまつわる不安はわれわれのイマジネーションの中に忍び寄ってくる。
というのは、重要なのは、事実そのものではなく、その事実のもつ意味である。

 死は人間すべてが受けねばならぬ、唯一の暴力あるいは侵害ではない。
人生はその他の暴力行為に充ちている。まさに、
人間の誕生、親子間の避けがたい戦い、愛する者との悲痛な別離
―これらすべては、そこに身体的・心理的暴力が必然的に起こる経験である。
いかなる人生も、
人が人生過程をたどるとき、暴力的エピソードから解放されていない。


 舞台で悲劇を見るなりあるいは悲劇を読んだあとで
われわれは、しばしば、独りで歩きたいと思っている自分を見出す。
そうした作品は、われわれをして
自分自身をよりよく吟味させることになるだけでなく
(逆説的になるかもしれないが) 仲間の人間をよりよく識別させてくれる。
 それはまたわれわれにつぎのことを理解する助けにもなる。
つまり、つかの間の被造物であるわれわれは、一人残らず、
生まれもがき、そしてしばしの間生き、やがて草のようにしぼんでしまうのである。
それゆえ、「光の消滅に対するわれわれの激怒」は、
実際的効果はないにしても、すくなくとも、より多くの意味をもつことになろう。
これは喜劇よりも悲劇の中に、
より深い体験レベルが呼び起こされる理由でもある。





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Re: 第八章 エクスタシーと暴力

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 4:42 am




 2 戦争におけるエクスタシー (1)


 合理的なレベルでは、全ての人が戦争を拒否し戦争を嫌っている。

第二次大戦前、私が大学にいたころ,, 数十万の仲間と平和主義者であった私は、
もし自分たちが十分しっかりと平和を信じているだけで、
あのはるかに不確かな国際平和をも信じうるという幻想を抱いていた。

戦争というものを万人の心から抹消することに夢中だったわれわれは、
ウィリアム・ジェームスの「戦争の道徳的等価物」という挑発的なエッセイにある
いくつかの要素を完全に無視してた。
彼はその時、戦争への恐怖をかくことは戦争を制止するのに役立つ、という信念に対し
注意を喚起したのである。

  戦争のもつ非合理性や恐ろしさを示したところで、それは何の効果もない。
 恐怖は魅惑を生む,,人間性から極端なものや、もっとも重大なものを取り出す
 ことが問題であるとき、所要経費のことについて語ることは恥ずべきことに聞こえる
 ,,平和主義者は、自分の反対者たちの抱く美学的かつ倫理的な視点に
 深く入ってゆくべきである。


さて、戦争に対するわれわれの反対にもかかわらず、
それを切り詰めようとのわれわれの努力は周知のように不成功に終わる、
それがうまくいかないのは、少なくとも部分的には、
われわれがその中心になる現象、
つまり「恐怖は魅惑を生む」ということを無視してきたことによる。
 戦争に反対しているわれわれは、なぜそのようにききめがないのか、
あるいは、攻撃性や暴力のこの究極的な形態(*=戦争)に対する
われわれのアプローチの仕方に何か間違ったものがないかどうか、,,
私はこう尋ねることを提案する。

 戦争の持っている魅惑、魅力、吸引力とはいったい何であろうか?




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投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 4:43 am

  2 戦争におけるエクスタシー(2)

私は、J.G.グレイ『戦士たち』を取り上げよう。
これは(グレイが)第二次大戦に一兵士として従軍した日記である。
(彼は三年間ヨーロッパの武装師団ですごし、あとの一年を情報員として勤務、
 停戦後は、戦争について研究するためヨーロッパに渡り、いまは西部のカレッジで
 哲学の教授をしている)
グレイは、私の判断では重要なことをしようとしている。
すなわち、この暴力の究極形態が人類に対して持っている下意識的な魅力を
発見し記述する亊である。


 「確かに、絶えず戦争を憎みながらひたすら戦争に耐えている多くの人がいる。
  そして戦争が好きだなんてことを認めようとする人はほとんどいない。
  しかも、多くの人は戦闘を愛しかつそれを憎んでいる。
  その人たちはなぜ自分が戦争を憎んでいるかを知っているが、
  それをなぜ愛しているかについてには
  知ることも明確に述べることも はるかにむずかしい。」


恐怖、言語に絶する苛だち、薄汚さ、その憎悪にもかかわらず、多くの兵士たちは
戦争を自分たちの生活における叙情的な瞬間と見ているのである。



 「自己に正直な多くの復員兵は、戦争における共同で努力した経験は、
  たとえ様相の変わった近代戦においてさえも、
  自分たちの生活における貴重な瞬間であったと認めていると私は思う ,,,
  参加者にとっては、それを他のだれかに説明することはむずかしい 」
  
 「われわれ以前の何百万の人びとと同様、現在の何百万の人びとは、
  戦争という奇妙な活動領域の中で生きることに慣れてきたし、
  またそこに、強力な魅惑を発見してきた。
  戦争という情緒的な環境には人を強要するものがあり、それは
  たいていの人をその呪文下におく,,
  反省とおだやかな推論は、戦争には無縁のものである。
  
  平和のきざしが目に見えてきたとき、私は残念そうに(この日記に)書いた。
  ―人間をさらに粗野にするが、おそらく、より人間的にもしてくれる、
  危険の持つ浄化力はやがて失われてしまい、平和がよみがえって
  幾月かたつと、もう,,われわれは過去の衝突の日々をあこがれだすのである」 



戦争の持っている魅惑とは一体何なのか。

その一つは、その極限状況の持つ吸引力である
―即ち、戦争に一切をかけることである。
 第二の要素は、とてつもない組織の一部であるという力づけの効果である。
 これによって人は個人的責任や罪悪感から解放される。
宣戦布告は、道徳的な陳述として、また道徳的な正当化として、
兵士達をして自分の道徳的責任を その出動態勢について
軍隊に引き渡すことができるようにしてくれる
のである。

実際、戦争が個人的な責任を麻痺させ、良心の自律性を腐食させてしまうことに関しては
何人もいささかの疑念もさしはさむものではないのである。




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Re: 第八章 エクスタシーと暴力

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 5:39 am



  2 戦争におけるエクスタシー(3)


 一般に見落とされていることは、
人間は自由を探し求めるだけではなくて、
自由を避けたいという願望も持っているということである。
つまり、自由と選択はまた一つの負荷なのである。

また、戦時にやりかねないことだが、自らの良心を集団にゆずり渡すことは
大きな慰めの源である。
このことはカルビニズムやマルキシズムのような
歴史の決定論が、どうして人びとを隊伍の兵士に変えただけでなく、
その人達の中に他の運動では利用できないような積極的な献身的態度を
鼓舞するのに大きな力をふるったかという理由を示してくれる。

これと密接に関係のあるのが、兵士たちの中に見られる僚友感情
(comradeship)である
―つまり、自分が受け容れられるのは、自分の側での個人的な価値によってではなく、
私が卒伍の兵士であるからである。私は、自分が攻めるも退くも、ひとえに
自分に与えられた役割ゆえであることを戦友に納得させることができるのである。
私の価値はその役割であり、その役割が私に課する限界が
かえって私にある種の自由を与えてくれるのである。
 自分があたかも大きな全体の一部であるかのように感じとれるこの能力が
こわれてしまうと、兵士たちの間に臆病風が吹きだしてくると説明される。

事実、私が精神療法を行ってきた経験から判断すると、
どのような状況であれ、肉体的な勇気の湧いてくるのは、
当人が自分自身だけではなく他人のために戦っているのだという自覚の有無、
それに仲間とのきづなを意識しているかどうか、にかかっているように思われる。

この肉体的勇気の根源は、もともとは、幼児と母親との間の関係、
とりわけ母親との連帯関係に対する信頼、したがって結果的には
世界との連帯に対する信頼
にあるように思われる。
 他方、子どものごとく肉体的な戦いを避ける場合にさえ、
肉体的な臆病さは、つまり母親が子どもの味方をしてくれず、
子どもが戦っているのに子どもに背を向けてしまうかもしれないという、
幼児期の拒否や幼児感情に由来しているようである。
したがって子どもは、どんなに努力をするにしても、その一切を独立でやるという気持になる。

こうした子どもには、他人が自分の味方をしてくれ、自分もまた他人のために戦う
といったようなことはおよそ思いもつかないことなのである。
しかも、他人の役目を引き受けるなどということは、意識的な決断のいることである。
この後者のタイプの人物は大きな道徳的勇気を持ち合わせているかもしれない。
しかもそれを彼は、孤独な人として発達させてきているのである。
しかし彼に欠除しているのは、肉体的な勇気であり、あるいは集団内での勇気である。
                                    
 (*欠除=訳文ママ)

さらに、暴力のもつエクスタシーの中には破壊への渇望
(lust for destruction)がある。
,,人間の中には、破壊することのよろこび、ものをこわし生物を殺したいという
先祖がえり的な衝動(atabistic urge)があるように思われる。
これが神経病者や絶望状態に置かれた人の場合には増大してくるのである。
しかしそれは、いずれにせよすでに備わっている習性の増大であり、
何世紀にもわたる文明のベニア板でもかくし通せるものではない。
  
 「鉄砲を手に戦場で軍務についている者を目撃するなり、
  殺戮から帰還したばかりの復員兵くずれの殺し屋を見るなり、
  あるいは自分の目標を撃破するときの爆撃者の気持を吐露したものを
  研究したものならだれでも、
  破壊することによろこびを感じているという結論を下さざるをえなくなる,,
  この悪事(evil)は、単なる人間的な悪事の域を超えるものであって、
  宇宙論的かつ宗教的な用語で説明することの必要なものに思われる。
  この意味で、人間は動物では決してなり得ないような形の
  極悪非道(devilish)なものになりうるのである。」  

                         
(グレイ 前掲書)

この破壊衝動に動かされるとき、(一時的にせよ)、
兵士の自我感覚は当人から消えてしまい、
彼はいま自分の経験していることの中へ吸収されてしまうのである。,,
それは、神秘的なエクスタシー体験のとき体験される
―つまり、エゴは「解体し」、それが光あるいは真理あるいは神と呼ばれようと、
その神秘体験は「全体」
(whole)との結びつきーを体験することである。
暴力を通して、われわれは自己中心性
(self-centerdness)をのり越えてしまうのである。

全てこれらは、暴力のエクスタシーを構成する要素である。暴力行為の中には、
個人をして、我を忘れさせ、今まで経験したことのないような
より深いより強力な何ものかに向かって自分が押しやられるようなよろこびがある。

私的な「我」(I)は気づかないうちに「我々」(We)になっており、
「私の」(my)は「私達の」(our)になってゆく。

私はそれに自らをゆだね、なるがままに身をまかせてしまう。
自分の古い自我が流れ去ってしまうのを覚え、
そこは、いかにも新しい意識、より高度な認識が立ちあらわれてくる。
最初のものよりはるかに幅の広い
新しい自我があらわれてくるのである。



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Re: 第八章 エクスタシーと暴力

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 5:47 am

  2 戦争におけるエクスタシー  (4)

さて、今日の人間つまり、
とるに足らない、孤独で、
マスコミが巨大化するにつれて
いよいよ孤立していく人間
を考えるとき、
自分の耳や感受性は、
絶えずつきまとうラジオやテレビや新聞が投げかけてくる無数のコトバによって鈍磨させられてしまい、
自分のアイデンティティについては自分でそれを見失ってしまい、
共同体にあこがれているのに、
それを見つけたときには、ぎこちなく頼りないものになっているのを感じる
―われわれがこうした現代人を考えるとき、
自分が切望しているものが、暴力や戦争のもたらしてくれるかもしれない
そういった種類のエクスタシーであることにだれもが気づいて驚くことになる。

 社会におけるこうした人間のことを考えてみよう。
つまり、来る年も来る年も何か「起こる」かもしれない正体のわからぬ不安に
さいなまれて暮らしている人間、
自分の日々の生活にうんざりしているときに訴えかけるファンタジーや
自分のイマジネーションの中で破壊できる「敵」(国)を想定している人間、
そしてとにかく行動に翻訳されねばならないと感じている恐怖心を抱きながら、
エクスタシーや暴力といった「ひそかな」誘いに惹かれつつも決断できず、
その漠とした恐怖を続けていることは、
その行動へとはき出したい魅惑や魅力や吸引力に身をゆだねることよりもはるかに悪いことだと感じている人間
―こうした人間が、
明らかに羊のように従順な仕方で、宣戦布告の線にそって動くということは、ひとつの驚きではなかろうか。

 たとえば、この齢になってはじめて私は、
アメリカの「在郷軍人」
(American Legion)というものがわかるような気がする。

その組織は私にとって良心に反するものであった
―それが何のためのものであれ私はそれには反対であった。
在郷軍人会員あるいはその他の復員兵の組織が、その武力による威嚇をしたり、
共産党員の夜さがしを拡大解釈してしまうその動機は、私には理解できなかった。

しかし、いま私にわかることは、こうしたグループの人たちは、もともとは
戦争に召集される前には、ビュイックやフォードにガソリンを給油するといった
とるに足らぬ仕事をしてきた若者たちであったということである。

フランスに渡り、彼らは英雄になり、婦人たちの誇りの種となった。
彼らの進む道には花が撒かれ、ありとあらゆる名誉が彼らに帰せられた。
彼らはおそらく生涯はじめて、重要視される身になったのである。

しかし、アメリカに戻ってくると、ある者はビュイックやシボレーやフォードに
ガソリンを注ぐといった同じ仕事を見つけられるだけであった。
よりましな仕事を見つけた者でも、
平和時の空虚な生活の中に似たような絶望を体験したかもしれない。

彼らは退屈をまぎらわすために、
結束して「索敵せん滅作戦」や反共作戦のような
戦争体験にもっとも近似した体験を再現して、たのしむのである。
彼らは、自分たちの生活に本来そこにないはずの意味を与えてくれそうな何ものかを
探し出そうとしているのである。


         

kusamura
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Re: 第八章 エクスタシーと暴力

投稿 by kusamura on Thu May 21, 2015 5:52 am




 3 認めてもらいたい欲求


(*15年振りにヨーロッパへ帰ったグレイに対し)
一人のフランス婦人―何不自由ないブルジョワ家庭に夫と息子で暮らしている―
はおおまじめにつぎのように告白した。

 「私の生活は、いまのところ、言い表すこともないほど退屈なのです...
  来る日も来る日も何も起こらないよりは、何でもよいから起こった方がましだ。
  ご承知のように私は、戦争を好きでもありませんし、
  もう一度戦争になることも望みません。しかし少なくとも、
  戦争は私に生気を感じさせてくれました。それ以前にもあるいはそれ以後にも、
  あれほど活気に満ちたときはありませんでした」


ドイツ人の戦友の言うことに耳を傾けた体験にからんでグレイはこう続ける。

  太りすぎの彼は口に葉巻をくわえながら、
  戦争末期に一緒だった若い日のことについて語った。
  「ときどき私は思うことがある。
   あのころは、今日よりも、われわれにとってまだ幸福な時代だった」。...
  彼の眼には、絶望のようなものがあった。
  こうした人たちは 昔のことをセンチメンタルなノスタルジアで憧れているのではなかった。
  彼らは、不毛な今日の幻滅を告白しているのであった。
  平和は、戦争の興奮がおおいかくし続けることのできた自分たちの中の
  空虚さをあらわにしてしまったのである。


この空虚さは、そこからの逃避が、暴力のエクスタシーであるような空虚さである。
その不毛さのもとのいくらかは、
文明化した生存に伴う不可避な条件によるものである。
こうした条件は、生活から(たいていの人とは言わないまでも多くの人にとっては、)
今日の豊かさの押し売りよりもはるかに重要であるように思われる「危険と挑戦」の
多く取り除いてしまった。
暴力の破壊性についてわれわれが何と考えようと、
暴力はその危険と挑戦を取り戻させる働きをする。
そしてそれによって人生はもはや空しいものではなくなるのである。

意味のある体験が人びとに否定されている限り、
われわれは暴力による社会変動を期待しようとする。
だれもが求めているのは何らかの意味感覚である。
そして、もしわれわれにそれができないなら、
あるいは今日の社会においては起こりそうもないとすれば、

それ(*意味感覚)を手に入れられる方法は破壊的方法によってである。

われわれがいま立ち向かわねばならぬことは、
破壊的暴力を必要としないほどに、人びとが意味をみつけだし、
他人からの承認をかち得るような方途を見出すことである。




kusamura
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Re: 第八章 エクスタシーと暴力

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