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第六章 存在への権力 (*存在する権利) 

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第六章 存在への権力 (*存在する権利) 

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 4:03 am




生きている人間にとって権力は、理論ではなく、
日に何度も直面し、利用し、享受し、格闘しなければならぬ、
つねに変わらぬ現実(reality)である。


だれもが、一種の潜在力をもって生まれている。
誕生時に、現実的な力へと形を整えるのは
こういう潜在力の中のごくわずかである。
こうした子どもは、まだ歩くことあるいは話すこともできない―..
しかし、H・S・サリバンが指摘しているように、
泣き叫ぶことはできる。
しかもこの叫びこそ、後になって、言語の複雑なコミュニケーション・システムへと発展してゆく潜在力なのである。

正常な幼児が、話し、這い、歩き、走ることができるにつれて、
こうした潜在力をもろもろの能力(power)へと成熟させてゆくに
当たって得るよろこびについては、何人も疑うことはできない。


公園で走ったり、子犬のようにはね廻ったり、
飛んでいたりする子どもを目撃するわれわれのだれもが..筋肉を動かすことのよろこびの何たるかをよく承知している。
その齢相応に世の中を探検し眺めることのできるこの潜在力は、
神経筋肉的な構造が発展するにつれて、次第に実際の力になってゆくのである。

権力はその実行へと進んでゆく。
倫理的に言えば、それは善でも悪でもなく、
それはただ存在するだけである。

しかし権力は中性ではない。..

男性なり女性なりの個人的な力と、
彼ないし彼女の属する文化との間には、まぬがれ難い衝突がある。
その個人をその限界内に引き留めておこうとする文化にたいし、
こうした権力は戦いを挑まざるを得ない。

この一貫せる戦いは、(弁証法的な性格のもので)
一方の極が変化するにつれて、他の極も変化してゆくのである。




kusamura
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Re: 第六章 存在への権力 (*存在する権利) 

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 4:04 am



  1.幼児期における権力の起源   (*子どもの攻撃性)


 権力の起源はまた攻撃の起源でもある。
攻撃は権力のひとつの使いかたであり―あるいは誤った使いかたである。


(*クララ・トンプソンによれば)
攻撃というものは「一切の生けるものの特性であるように思われる。
生命を成長させマスターする先天的な傾向 から出てくるものである。
ただこの生命力が発展の途次で妨げられるとき、
怒りや激怒ないし憎悪の要素が、その生命力と結びつくのである。」


「権力」というコトバは「~できる」(to be able)の意味をもつ語根からでている。
サリバンは,,この意味で,,「能力(ability)と権力(power)」と一緒に使い,,
「われわれは、自分の中にこの 権力動機づけのようなものを
持って生まれているように見える」,,この権力的動機づけは、
安全や地位や威信によって形成されているもの 、と述べている。
こうした性格は、たしかに社会的なものであって、その文化から
またその文化の中で発達する幼児によって学習されるのである。

 子どもがブロックで家を建て、つぎにその建物を建て直すためにたたきこわす
のを見守るとき気のつくことは、権力と攻撃が積極的な価値を持っているということである。
子どもは、ベストをつくし、
自分の発達レベルを可能にする限りにおいて、自分の世界を探検し、
実験し、支配し続けるのである。
D.W.ウィルコット博士は
「もともと、攻撃性はほとんど活動性(actibity)と同意語である。」と書いている。

もともと、幼児は、その権力や攻撃性を
つねにその反対物との結びつきで示す
―つまり、 独立し 育てられたい という欲求との結びつきをしめす。
その成長の全過程は、
母親との生物学的な結びつきを断つように始まるものとして考えられている。
子どもは、へその緒を切ったあと、
心理的な基盤に立ってもろもろの関係を形成するようにならねばならない。
危険をおかして進むごとに、子どもは、自分の個人的な力や
能力を利用していくようになり、
それから母親のもとへ帰ってゆく。

この発達の成長発育的な側面は、それ自体、
世話をされ愛されたいという傾向にあらわれてくるし
自己主張をし、もし必要なら抵抗するという要求のなかでは、
攻撃的な側面があらわれてくる。
前者は「イエス」であり、後者は「ノー」である。

,,もし子どもの攻撃性が阻止されるようなことがあると、
その子は永久に依存性の強い状態を持続する傾向になる。


,,もし子どもの愛および世話をしてもらいたい欲求が
かなえられない場合には、
その子は破壊的なまで攻撃的になるかもしれないし、
世間へ向けて復讐をはらすことで生命を落とすかもしれない
―これは時々スラム街で育てられる子どもに見られるケースである。


,,もし子どもが、制限なく何をしてもよく、自分の力をテストするための何も持たず、
両親がしっかりして何も反対できないという事情なら、
その子は、その攻撃性を自分自身に向け、爪をかんだり、自らに罪をなすりつけたり、
あるいはたまたまやって来るだれかれなしに、無分別な攻撃を加えるかもしれない。



子どもの可動性(mobility)は、
子どもが母親から離れてゆく距離を拡げるひとつの方法とみなすことができるかもしれない。
それは、母親から独立するための実地訓練であり、子どもの実母がどこにいようと、
あるいは彼女が生きているにせよ死んでいるにせよ、それにおかまいなく、
生涯にわたって高まってゆく実践行動である。




kusamura
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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 4:06 am

1.幼児期における権力の起源 2  (*子どもの攻撃性)



不幸な育ち方をすると、個人の持っているもろもろの力は、
破壊的な目的にふり向けられるし、また、実際にふり向けられてしまう。


 ある女性の患者は、定期的に、夫や子どもに対する抑えがたい怒りにとらわれたが、
その怒りの際、彼女は、際限のない悪口雑言(invectives)を吐き、
激しい怒りに狂って夫をくりかえし握りこぶしで強打するのであった。

 後ほどわかってきたことによると、彼女は売春婦の娘で、また彼女が幼かったとき、
しばしば、カフェでいろんな違った男と接触するための「人目につきやすい用具」(conversation piece)
として用いられていた。母親はその男をそれから自分の部屋へつれこみ、
彼女(患者)は、一時間ばかりそこにテーブルにひとりぼっちで座らされていたのである。
 彼女は、学校時代を祖父母と暮らしており、
生い立ちゆえに村人たちからはいつも除け者にされていた。
彼女は、とやかく噂している婦人達の家へ出かけ、その家のドアの入り口で
復讐のため脱糞(defecating)したことを覚えていた。
 彼女は、兎やそのほかの動物を家で飼育することで、世話をする感覚を発達させたが、
しかしこの感情は孤独な感じであったので、
自分の友達との親密な状況の中で自分の気の小さいところ、を決して克服してなかった。
 こうした躾け方のために、成長後、対人関係の場において
破壊的な怒りや攻撃性が生まれてきたことはよく理解できる。


 幼児が正常な発達をするのに必要なものは、
当人が日々、支配(masterry)の感覚を探り出してそれを強化できる、自らの能力と
親からの愛情とケアである。


ストール(*アンソニー・ストー[Anthony.Storr]邦訳書)は次のように述べている。
「幼児は“私にそれをやらせて”を繰り返し、懇願するものである。
 賢い母親は子どもにできるだけ多くのことを独力でやらせるよう励ますものである。
 たとえば、大人がやれば数秒でできてしまう結び目を結ばせるのに、
 子どもでは数分かかろうとも、辛抱強く待つのは、たとえ退屈だとしてもやらせるべきである」

ストールは、グリムのおとぎ話(*残酷なものが多い)を読むことや、
「警官と泥棒ごっこ」をすること、戦争ごっこなどが子どもに有害であるとは考えていない。
,,もし現実の世界で自分の攻撃傾向を実行できない子どもの場合であれば、
ファンタジーの世界でそれをやり遂げる必要がある。 再びウィニコットを引用すると、
『もし社会が危険に瀕しているとすれば、それは、人間の攻撃性のゆえではなく、
 個々人の中の個別的な攻撃性を抑圧しているからである』。


子どもには自分の成長する個性を守り主張するために、
手に入れることのできる攻撃的な潜在力が必要なのである。




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Re: 第六章 存在への権力 (*存在する権利) 

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 4:20 am



  3 自己-確認 1


存在への権力(power to be)ということの中には
自分自身の存在を確認したいという欲求が内包されている。

われわれの見解では、第二のレベルに属するこの存在確認は、
自己信頼(self-belief)の静かなおだやかな形のものである。
それは、生後数ヶ月で、片親ないし両親を通じて、幼児に伝えられる
基本的な価値感情からでてくるものである。

しかも、それは、後になって、威厳の感覚(sense of dignity)として
姿をあらわすのである。この「威厳」(dignity)というコトバは、
「値打ちのある」(degnus)というラテン語に由来するもので、
心理的に健康な人間にとっては欠くことのできないものである。
多くのことが、
尊重されたいという、この最初のあこがれに起こってくるのかもしれない。

「私は何がしかの価値あるものであるが、世の中の何人もそれを知らない」      
         (第一章にでてきた分裂症傾向の若き女性音楽家プリシラのコトバ)
「私はとるに足らない者であり、しかも他人が私を性的に利用できるときを除いては
 価値が認められているとは思えない。」
  
          (マーシデス-黒人売春経験者-はこのように言いたかったのであろうと想像できる) 

多くの人の犯す間違いは、自己-確信にバイパス(迂回路)をつけて、
無力性から直ちに攻撃と暴力へと飛躍してしまうことである。
われわれがつねに、無力的であるとき、そして
はじめて自分が権力を持っていると考えたときに得られる向こう見ずな感情は
人を酔い心地にしてしまうものであるように思われる。

それは、自分は「存在への権力」を持っているという事実を体験するために
アドレナリンを呼びださねばならなかったようなものである。
しかも、ひとたびアドレナリンが存在すると、
人はその持っている力を攻撃的な行動へ移動し続けてゆくのである。
ここから、治療中の人物は、
しばしば自分の友人や家族が
「攻撃性過剰」と呼んでいる時期を通過するのである。

それが起こるのは、彼らが自分自身の存在への力を実感する直後のことである。
この攻撃あるいは暴力はかがり火のように燃えるが、それは、
一般に一時的な運動にすぎない。

人間発達のステップとして、
自己-確信がオミットされるなり、さっさと片付けられるならば
たいへん価値のある何ものかが失われるのである。

人の存在への権力に、耐久力と深みとを与えるものは、自己-確信である。

現代文化では、多くの人が、道徳的な根拠から、
自己-確認を否定する傾向にある。
こうした衝動(urge)は軽蔑的な意味合いから
利己的(selfish)であるか、あるいは自己中心的(egocentric)であり、
他人を愛することは自分自身を「憎むこと」であると教えられてきた。
これはゆがめられたピューリタニズム解釈の、明らかに時代錯誤的な側面の一つである。

サリバンはつぎのような命題をたてている。
 他人に対するわれわれの態度は、
 自分自身に対する自分の態度に平行するものであり、
 他人を愛するつもりならその元になる
 自己自らに対する愛が欠かせないものである。

このサリバンの命題は、今日、何の疑いをさしはさむことなく認められてきている。
聖書の教え
―あなたがあなた自身を愛するように汝の隣人を愛せよ―
治療的に言って、それは,,患者の行動を大局的に見る助けとなる。
汝は、汝自身をひどく扱うのと同じように、他人に対しひどい扱いをするなかれ」。




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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 4:29 am

3 自己-確認 2


ある人が自分を価値ある人間だという確信を抱いているかどうかは、
(普通では)まず第一に、母親ないし母親代理人の幼児に対する態度に始まり、
家族の中では、幼児に対して家族員がどれだけ正直であるかによって滋養される。
子どもが成長するにつれて、
この最初の感情(*自分が価値あるものであるという自己-確信)は、
彼および彼の潜在力に対する家族外の人びとの評価によって強化される。
後になると、
さらに成熟せる人間は、苦しいときに思い出せるように、自分の記憶の中に
自分を信じてくれている人びとのイメージをとどめておくように思われる。

私が大学生のころ、
私はある大人が私をきわめて重大なものに信じてくれた経験がある。
その後時々、私の生活の中で、私が運命的な決断の場に直面すると
私はこうした人物の一人にしがみつこうと探し回っている自分に気づくのである。
,,彼ないし彼女が、私に何をすべきか語ってくれたわけではない。
私自身の心理的安全のために、自分を信じ込んでくれる誰かを探し出すことが
重要であった。


精神療法のねらいには、その個人がしばしば、着実に、長期にわたって、
自分自身の自己-確信をつくりあげてゆけるようにその個人を助けることが含まれる。


人間が自我-意識的でありうることは、
広く自己-確信への要求を増すのである。


人間においては、自然と存在は同一ではない。しかし、部屋の中でふざけまわる
私の子猫にとっては、自然と存在は同一で「ある」
―子猫が自分について何をしようとそれにはおかまいなく、子猫は猫になるのである。
猫は、自我-意識(self-consciousness)あるいは何かを認識する自分を
さらに背後で認識するというような負担には耐えられないのである。
,,楢の木の場合、自然と存在はまた同一である。
どんぐりは、物理的条件が完全なら楢の木に生成してゆく。
どんぐりはそのことについて考えたり、あるいはそのことについて知るという重荷は
負わされていない。

意識というものは、自然と存在の間に入り込んでくる媒介変数である。
それは、広く人間存在のもろもろの次元を拡大してくれる。
つまり意識は、人間の中に認識の感覚、責任感、この責任に相応しい自由の限界を
感じさせるのである。
人間の意識のもつこの反省的な性格は、動物行動についての研究では、
人間の攻撃性についてただ皮相的なことだけが説明されている。
人間というものは、無限に残酷になりうるものであり、
自らのサディズム的な快感のためには破壊も辞さないのである
―これは動物には否定されている「特権」である。
こうしたことの一切は、
人間存在にあっては、自然と存在が同一でないという事実から出てくるのである。

 かくて、人間は、自分の発展に参加し、その選択がどれほど限定されているにせよ、
自分の重みをこれないしあれへの傾向にかけるときだけ、自我(self)になるのである。
この自我は、自動的に発達するものではない。
人間はただ当人が、自我を知り、それを確認し、それを主張する限りにおいてのみ、
自我になりうるのである。

これこそ、ニーチェが、
絶えずコミットメントと献身(dedication)の必要を主張している理由である。
またこれは、人間が、
動物その他の自然よりはるかに教育可能(educable)である理由でもある。

人間は、自らの自覚を通して、
ある程度自らの成長に影響を与えることができるのである。



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Re: 第六章 存在への権力 (*存在する権利) 

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 4:30 am



 4 自己-主張


 自己-主張の奇妙な面は、
人間はしばしば主張を訓練するために、
対立するもの探し出すことである。
つまり自己主張は、病理的なものではなくて、
存在への権力の建設的表現なのである。

二歳から四歳へかけて,,幼い子どもは、その「限界をテスト」し、
どこまでしでかすと両親の反対をまねくかを知り、両親にさからうために両親にさからい、
自分に対しダメというためにダメというであろう。
―四歳児の主張は、それが母親の要求に対立するがゆえに悪いのである―

子どもは
母親が期待しているものとは全く違う仕方で「善」と「悪」という問題に
関心を抱くことになるかもしれない。
(シャルロッテ・ビューラーのレポート)
四歳のピーターは、
「大声でひとりごとを言い、尋ねているのが聞かれた。
『彼(=僕)はいい子なのか。あるいは彼は悪い子なのか』。それに対し、
 断固たる宣言がよろこびとともにでてくる。
『いや、悪い子だ、彼は』」


このように、対立物を探し出すことによって、
子どもは、言われた何かをすることをしばしば拒否するのである。
分別のある親はこの行動を受け容れるが、
それは子どもの罪悪感を増大することになるという理由ではなく、
降参するための口実としてでもない
―子どもは、そこに真実に対立物を得るために
何かほかの吐け口を見つけることに、
精を出さねばならないのである。
というのは、彼(子ども)の欲しているものは、
自分の「心理的な筋肉」を試験することである。
それは成長の持つ正常で不可欠な側面である
―自己主張への意志は子どもによって「実践される」(practiced)のである。


--------(*ニーチェ)-------------------

 権力は、対立物が克服される状況下で実現されるものである。

ニーチェは意志のこの側面を見ていた。
『私は、意志がどこまで抵抗や苦痛や苦悶に耐えられるかによって
 “意志の力”を評価する』
,,安心と富とは敵であり、
 本ものの自我の発展を浸食し、その基礎を削り取ってしまう、
 と、ニーチェは信じていた。

 われわれはニーチェが、繰り返し

『生命は自我超克(self-obercoming)から成っている』
と述べているのを知っている。
 ニーチェは、ダーウィン的な生存競争という考え方を軽蔑し、むしろ

『一切の生ける被造物は、自らの生存の保持に向かうどころか、
 自らを高揚し成長し、より多くの生命を生みだそうと努力するのである』
と主張している。

『生命が言った。見よ、
 私は、自分自身を絶えず克服しなければならぬものである。
 事実、それをあなたは、生成の意志、あるいは一つの目的への 
 より高きもの、さらにより多様なものへの衝動と呼ぶのだ』





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Re: 第六章 存在への権力 (*存在する権利) 

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