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第五章 権力の意味 Ⅱ (権力と愛-親子・暴力・嫉妬)

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第五章 権力の意味 Ⅱ (権力と愛-親子・暴力・嫉妬) Empty 第五章 権力の意味 Ⅱ (権力と愛-親子・暴力・嫉妬)

投稿 by kusamura Fri May 22, 2015 4:34 am



4 権力と愛


愛と権力は、(伝統的には)お互いに相対立するものとして引き合いに出される。
普通はこう論ぜられる。
――権力をふりまわせばふりまわすほど愛はいよいよ薄れていく、
――また、愛が増えれば権力が後退する。
――愛は無力なもの、権力は愛情のないものとみなされる。
――愛を容れる力を発展させるにつれて、権力への関心は薄れてゆく。
――権力は支配と暴力へつながり、愛は平等と人間的福祉につながる。

ヴィクトリア朝から受けついだこの議論は、しばしば、
平和主義者
(pacifist)の立場の基本とされている。
この議論は、表面的な推論に基づくもので
われわれを大きな誤りや果てしないトラブルへまき込む、と私は思う。
われわれの失敗は、
われわれが愛を純粋に感情と見なさないことと、
それを存在論的
(ontological)な存在の状態と見ないとことに起因する。


(*親の権力)
たとえば、子どもの養育に当たっての伝統的な議論では、
親がこどもを愛することが多ければ多いほど、
子どもはそれだけ自己を主張することが少なく、
あるいは他の仕方で権力を示すこともそれだけ少なくなる
というものである。
これは過去数十年にわたる
多くの親子関係の特性をなしている無構造な「許容性」
(stoructureless permissivence)の一部であった。

私は総体としての許容性を非難するつもりはない。
その許容性の多くは、ヴィクトリア朝の権威主義に対する反動であり、
結果として、若者たちには健全な自由が生まれ、責任の増大が見られた。
しかしこれは主として、親が自分の権力を抑えることなく、
子どもをして(親がそれによって生きてきた)構造を率直に見られるようにした場合である。

他方、
愛は権力の放棄であるとの仮定に立って愛を示し続けようとする親は、
子どもに操作されてしまうのである。
壁に押されぎみの親は、より精出して努力するが、
自分の子どもにたいする憤然たる態度ゆえに、より激しい罪意識を覚えるのである
―そしてこの悪循環のなかで、怒りになって爆発し、暴力もふるいかねない。

おそらく権力抜きで愛情を与えているこうした無構造な家族は、
根のない子どもを育ててしまうことになる。
こうした子どもは、後年、
親が自分に対して「ダメ」を言ってくれなかったかどで親をなじるようになる。

権力を放棄した上で人を愛しようとする努力は、偽似的イノセンス傾向の所産である。
それは愛することのむずかしさを過小評価するものであり、
愛はつねに-それがいかに深い永続的なものであるにせよ-
その不誠実なものがまじることによって傷つきやすいものである事実を見落とすものである。
このような愛は、アーサー・ミラーの言葉を借りれば
人間生活の複雑なアンビバレンツに気づいていないことから出てくる。

権力と愛が相互に連関しているということ,,,つまりわれわれは
まず第一に愛しうる(権)力を自分自身の中に持たねばならないのである。,,,
人は、
完全に運び去られたり、あるいは、取るに足らないものとして吸収されないために、
与えるべき何ものかを持たなければならないのである。


愛と権力を併置することの誤りは、
愛というものを純粋に感情と見たり、権力を単に強制の力と見たりすることから
出てくるのである。
われわれに必要なものは、それらを
存在状態ないしプロセスとして、存在論的(ontological)に理解することである。        


kusamura
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投稿 by kusamura Fri May 22, 2015 4:37 am

4 権力と愛 2  (*暴力)





権力と愛との経験的な関係は、権力の逆用ともいうべき暴力(を)問題にするとき
両者がいかに近接するものであるかがよくうかがえる。
暴力は、感情的に緊密な関係にあり、それゆえ
お互いに傷つきやすい人たちの間でもっとも起こりがちである。

フィラデルフィアでの殺人に関する統計的研究によると、
殺害行為の大部分は家族構成員に対しておこなわれている。
フィラデルフィアで起こった殺人の見込み予測から判断すると
もっとも危険な部屋は寝室である。
「もしあなたが十六歳を超えた女性であるなら、あなたを殺害する人物は、
 夫なり恋人あるいは親戚の者でありうる公算がもっとも高い」
とヴォルフガングはこの研究の中で書いている。



結婚や恋人同志の関係の中には、
愛と権力との関係に似たようなものがあるのがわかる。
性行為の中でも自己主張(=self asser)(即ち権力)と思いやり(=tenderness)(即ち愛)との
結びつきが必要である。
他人の気持ちやよろこびに対する心づかい(caring)や感受性(sensitibity)というものは
思いやりなしには存在しないし、また、
自己主張なしには、自らの自我を完全に行動に移せる能力が湧いてこないのである。


愛と権力が相対立するものと見られるとき、
「愛」は一方のパートナーの卑劣な(abject)降伏となり、
他方によって巧みに(あるいは不手際に)支配される傾向がある。
こうしたものは、しばしばサド・マゾヒスティックな結婚となる。


そのねらいがただ愛によって導かれるときには、
主張と攻撃は明らかに、あまりにも権力に汚染されているとして除外されてしまう。
そこに結果として出てくることは、お互いにしがみつくことであり、お互いに
吸収されてしまうことになる。
このような関係は、愛の形態としての服従から、
権力の一形態としての暴力へと、後先ゆれるかもしれない。

いかに献身的な妻なり夫が...突然その配偶者に手斧をふりあげるかは、
新聞の切り抜きでだれもがよく承知していることである。
この極端な例は、
「愛」のなかに問題があることを示している。
つまり、権力の現実的な主張をそのなかに持たない愛のことである。,,,
 素直で抑制のききすぎている人やいつでも親切そうに見える人は、
その攻撃性を一度に大きく爆発させる人になりうる。

このことは、
ある人間が正当な方法で自らの権力欲求を生き抜くことができないときに
暴力が生じる、

というわれわれの命題にも一致する。

                          
 

kusamura
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投稿 by kusamura Fri May 22, 2015 4:48 am



4 権力と愛 3 (*嫉妬)


 権力と愛という問題のもつもう一つの興味ある面は、
 嫉妬(jealousy)の現象である。

他人に心を配り価値を認める機能としての嫉妬、
の持つある要素が正常で健康的なもの(*だとしても)――
一般に「嫉妬」と呼ばれているものは、その正常な思いやりの域を超え出てしまう。

個人の無気力さ加減と直接関係のあるものは所有欲(possessiveness)である。
他人を失ったときに感ずる脅威の程度は、
当人がどれほど相手に対して嫉妬を感じているかによる。人は何もできない。なぜなら
人は、自分の中に愛しているものを取り戻すだけの力を全然持ってないし、
自分を完全に冷たく無視された(liave out)ものとして体験するからである。
こうした状況では、嫉妬はある形の暴力になりうるのである。

 ある若い男は,.ロンドンにいる恋人に電話をかけることができず、
 嫉妬の発作にとらわれていた。彼はただちに、ロンドンへ飛行機で
 かけつけた――なかば、他の男とベッドにいる彼女を想像しながら(hoping)。
 この青年はひどく脅えていた。
 それは彼の無力感があまりにも大きかったからである。


嫉妬というものはしばしば人間関係のアンビバレンスから出てくる。
つまり、彼は相手を愛しているが、また憎んでもいるのである
―すなわちこの青年は、もし彼女がもうひとり別の男を抱くことによって、
いままでの関係を断つよう強いていたならば、彼にはむしろ
その方がよかったのであろう。

嫉妬というものは、その人の探し求めているのが、
愛よりはるかに権力であるような
人間の間柄を如実に示すものである。
嫉妬が起こってくるのは、その人物が、
十分自尊心や自分自身の権力を―もしマーシデスの言葉を使うなら―
彼女自身の「生きる権利」を確立できなかった時である。

神経症的な嫉妬がもっとも強く起こってくるのは、
その愛がそれほどしっかりしたものでないか、あるいは十分に
基礎が固められていないときである。

嫉妬は、その人物が
相手を「取り戻す」(with back)ことができない と感じていることの反映である。
これはうまくゆかなかった権力であり、きわめて時間のかかる
しかも破壊的なものである。
嫉妬深い人間は、自分の全エネルギーを嫉妬発作に投入する必要があるように思われる。
それは、
部分的には心の底できわめて疑わしいと感じている愛の存在することを
「証明」するためである。


                     

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投稿 by kusamura Fri May 22, 2015 4:52 am



4 権力と愛 4  (*ラスト)


権力と愛との境界線はお互いに重なり合うものである。
愛というものは、愛してる側の人間をして、相手から影響されたい気持をおこさせ、
愛されている方の人間が望んでいることをやりたい気持にさせてくれるものである。

つまり、両人は相手の人格的尊厳に心を配り、
相手の独立せる自我の保持に配慮するのである。

愛と権力のからみ合いは、
ものわかりのいい成人が子どもに与える、
確固としたこどもの育て方にもあらわれている。
自我の主張や自我の確認、
それに、攻撃さえ、時には避けがたいものであるだけではなく、
愛情関係の発展という点では健康なものである。

われわれは、巨大技術(giant technology)の支配する世界に立っている。
そして男も女も、いやしくも生き残りたいなら、
自分たちのはっきり意識し自覚された権力を主張できなければならない。

ニーチェはこう主張する。

よろこびの出所は、屈服や拒否ではなく、主張からである。






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