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第三章 コトバ―その最初の被害者

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第三章 コトバ―その最初の被害者

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:20 am



 ある時代が激しい過渡期の苦悩にさらされるとき、
 最初に解体するものはコトバである。

ビリー・バッドは、握り拳で先任衛兵伍長(*艦内で警察権を握る)を殺した後、
(*艦内の)裁判でこう叫んでいる。
「もし僕に、自分の舌を用いることができてたなら、
 僕は彼をなぐってなかった。..
 僕はただ
(*舌の代わりに)一撃をくらわすことで、ものが言えただけだ。」
(ひどい吃りのため)ものを言うことができず、
彼は自分の情熱を身体的表現によってのみ表出することができたのである。

 暴力とコミュニケーションは相互排除的なものである
誰であれそれがあなたの敵である限り、彼と話すことはできない。
もしあなたが彼と話ができるようなら、彼はあなたの敵ではなくなってしまう。
そのプロセスは相互的なものである。
もしある人間が他人に対し暴力をふるいたくなるようなとき
―わきたつ怒り、あるいは、
 即座に復讐が必要となるほどにプライドが傷つけられたような場合―
話す能力は、神経的なメカニズムによって自動的に阻止されるのである。
(アドレナリンが分泌し、
 原始的な戦闘態勢に入れるようエネルギーが筋肉の方へ移される。)



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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:23 am


幼児における権力の起源について、*サリバンは次のように指摘している。

 幼児はその最強な道具として泣き叫ぶという手を持っている。
 その叫びは、口の装置である唇、口、のど、頬、声帯、肋関節、横隔膜 の活動である。
 この叫び声から展開するのが、もっともと有力な道具の大集合体(コトバ)である。
 人は自分の仲間との間柄を無事安全に保ってゆけるようにこの道具を使うのである。
 私は、コトバを含む操作である言語活動
(全体*)について触れているのである。

コトバは、基本にある複雑に入り組んだ理解の可能性、
     人間間の共感的な結びつき
     組織の共有
     他人と同一化できる能力 から出てくるものである。

この理解可能性ということは、単なるコトバ以上のものである。
それは母の子宮内での懐胎
(gestation)という事実や、
誕生のプロセスの原型ともいえる潜在的に人びとを結びつけるきずな、
われわれ性
(we-ness)の状態を意味する。

もしその中ではじめ胎児として成長した子宮というものがなかったなら、
コトバはできなかったであろうし、
またもし誕生ということがなかったらコトバは必要でなかったろう。


人間関係のきずなが切れるとき、
即ち、コミュニケーションの可能性が壊れるとき
攻撃や暴力が起こるのである。



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Re: 第三章 コトバ―その最初の被害者

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:24 am

1 コトバへの不信 (1)

コトバに対する深い疑惑と、それが原因でもありまた結果でもある
自分自身および仲間同士の間柄の貧困化といったものが、
今日の社会にはびこっている。


カレッジの図書館の書架は、他の本が書かれたがゆえにこの本が書かれ、
その他の本はさらに別の本が書かれているがゆえに書かれる、
といった調子で書きためられた本の重みでたれ下がっている
―そうした本は、真理に触れて味わう興奮とはなんの関係もなくなってしまい、
ただ書いた人の地位や威信との関係を持つだけのものとなるまでに、
食肉同様中身のますます薄いものとなりつつある。
しかもアカデミックの世界では、実際には今あげた
地位と威信という二つの価値が力を発揮するものになりうるのである。

このようなとき、疎外と孤独にさらされているわれわれが切望しているものは、
自分の感情を単純に直接他人に表明することであり、
他人の存在と直接関係を持つことである。
たとえば、相手を眺め体験するために相手の顔をのぞき込んだり、
あるいは静かに彼のかたわらに立つというようなことをしたくなるのである。
われわれの憧れていることは、彼あるいはわれわれのムードや感情を、
何のさまたげもなく直接に表明することである。

われわれは、人間進化とともに古いが新しいものとしてわれわれのところに
やって来る、ある種のイノセンス、
即ち再びパラダイスにいる子どものようなイノセンスを探し求めているのである。
,,われわれの欲しているのは、われわれの肉体を通して話すことであり、
たとえそれが部分的なものであるということを知りながらも、
他人との同一化に直接とびこみたいのである。


かくて、話すこととは対照的に、今日、行動療法に向かう傾向が強いが、
それは死せる概念に踏み迷うよりも、むしろ、
筋肉的活動や体験を生き抜くことができるとき、真理は出現してくる
という確信である。
したがって、そこに見られるのは、行き当たりばったりの集団化であり,
マラソンであり、ヌードセラピーであり、LSDその他の薬物使用である。
要するにこれは、人間同士が「何のかかわりも合いない」ときに
肉体をしてある関係にもち込むことである。

どんな関係があるにせよ、それはつかの間のものである。
こうした関係づくりは今日
(1972年のアメリカ*)
多彩かつはなやかに湧き立っている。
しかしそれはしばしば一夜明ければ、われわれの手中で
海の泡沫と蒸発してしまうしばし潤いの場を提供しているにすぎないであろう。

 私のねらいは、こうした治療形態を取り除こうというのでも、
肉体の使用を軽んずるものでもない。
私の肉体は、そこで私の自我が自己表現できる一つの方法にすぎず
―この意味では私は
(=)私の肉体であり―
そして確かに肉体は評価さるべきものである。
が、私はまた
(=)私のコトバでもある

 私の指摘しておきたいことは、
まさに暗々裏にコトバのバイパスを造ろうとする試みに見られるような、
行動療法に代表される破壊的傾向である。
というのは、こうした行動療法は暴力と密接な関係にある。,,
つまり、集団そのものの内部に発生する活動性と、
外面的には、参加者が反-知性主義の構えになってゆくという点である。,,
それは親しくなるのに必要な時間幅をとび越えようとする努力であり、
他人の希望や夢や恐怖を直接感じ、かつ、体験しようとする試みである。
だが、人間が親しくなるのには歴史が必要だ。

われわれは、危険なことに、
人間はシンボルを作るものである、ということを忘れている。
もしそのシンボル(あるいは神話)が
不毛で死んだものに見えるなら,,シンボルの破産は、
絶望への道の一里塚と見るべきである。

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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:25 am

コトバへの不信 (2)



コトバへの不信は
「メディアはメッセージである」(*マクルーハン)ということを体験することによって、
われわれの中にはぐくまれる。


テレビに出てくるコトバのほとんどが,,ある意味を伝えるというよりもむしろ
スピーカーのパーソナリティを売るというサービスの意味で用いられている。
これは、コトバの「意味」ではなく、コトバのもつ「PR的価値」を強調するという、
より狡猾な表現形態である。
コトバは信頼すべき人間的な目標のためには用いられてはいない
―つまり何か独自なもの、あるいは人間的な暖かみを分かちあうためには
用いられてはいない。
そのとき、メディアはあくまでメッセージであり、
つまりメディアが働くかぎりおいてはメッセージは全然ない。

戦時中、顕著にあらわれるが、またその他のときにも見られる
「不信感」
(credibility gap)という語句は、
単に他をあざむこうという意図以上により根の深いものになっている。
われわれはニュース速報に耳を傾けながら、,,
真実はほんとうはどこにあるのか、なぜ我々にそれが知らされないのか、
ということに疑いを抱いている自分に気づくのである。

今日しばしば見られることであるが、
ごまかしがコミュニケーションの手段として受け容れられてきた。,,
すなわち、コトバが、そこで論ぜられている事柄とはますます関係が薄くなり、
その底にある論理に対してはいかなる関係もなくなって、
コトバというものの根拠が相互の分かちあい構造にあるという事実が
すっかり無視されているのである。

(*例-ラオス侵攻がまだアメリカでは伏せられていた時期の
 レーアド国防長官と記者たちの会話)
 記者たち(*ラオス侵入の噂は)ほんとうですか?
 レアード長官 私はいま軍事委員会の会議から出てきたばっかりで
      申し上げておきたいことは、われわれの徴兵についての議論は
      たいへん有益なものでなごやかな話し合いに終始したということである。
 記者たち そんなことは聞いておりません。閣下、
      『イズベスチャ』(ソ連の新聞)も、すでにこの侵入を報じています。
 
 レアード (ほほえみながら)『イズベスチャ』が真実を書かないことはご存じの通りです。
 記者たち (再度最初の質問)
 レアード 私は、戦場にあるわが兵員諸君の生命を守るために必要な
      一切の手をうつつもりである。これ以上は言えない。(立ち去る)

だれも、レアード長官が虚偽を述べているとは言えない。
彼の述べている一切は事実に関するものである。
ただ眼目は、彼のコトバはコミュニケーションの全体構造を否定している点である。
彼の解答は、質問項目とは何の関係もない。
これが極端に走り固執された形をとると分裂病の一種になる。

しかし、今日、それは単に政策と呼ばれている。


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Re: 第三章 コトバ―その最初の被害者

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:28 am



 4 コトバと体験 (1)


重要な問題は、体験
(experience)と、
若い世代が「単なる思考」あるいは「単なるコトバ」と呼んでいるものとの間の区別である。

体験とは、A.マクレーシュのコトバを借りれば
「人間が自分の口で、りんごを味わうのとちょうど同じように」
行動にアクセントを置き、何かを生き抜くなり、あるいは何かを感じ取ることである。
何かを体験することによって、われわれはその意味をあらゆるレベルで
われわれに浸透させるのである。
われわれは、感じ、行動し、考え、究極的には決断するのである。
決断は自分のトータルな自我を危うくする行為である。
体験への情熱は、より多くの自我をその情景の中へ含みこませようという努力である。
われわれはトータリティとして体験するのである。

体験は部分的な人間観に相対立するものである。
たしかに行動主義は体験の一部である。
しかし行動主義が人間理解や人生哲学の全てになってしまうときには
―それは結局知的な素朴さになってしまうものだが―
それは破壊的なものになってしまう。


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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:39 am


 4 コトバと体験 (2)

われわれは経験を「反映」
(reflect)することができるし、
また反映しなければならない。
これは思考に力を与えるだけでなく、存在をコミュケート(*伝達)するのである。

私の受けた教育で、もっとも重要かつ飲み込まれるような体験は、
*ポール・ティリッヒの講義であった。
ドイツ人で、第一級の学究であったティリッヒは、講義することに信頼を寄せていた。
しかし彼はまた、人生や真理にコミットする人間であった。
それにすぐれた論理的能力をもった思索家であり、その論理的能力を利用することを
ためらってはいなかった。かくて一切のレクチャーがティリッヒの存在の表現となり、
それが私の存在を目覚めさせた。
私は彼のレクチャーに接することによって、レクチャーとは何をなすべきか
ということについての私の理想ができていった。


反省もまた体験の一部であるという表現は、きまぐれで混乱を惹き起こしやすい。
われわれは思考というものをそれ本来のあり方で働かせてゆかねばならない。
その誤りというのは、思考をシャットアウトしてしまうことと、
あるいは歴史の持つ含蓄をはらいのけるために「直接」経験に訴えることをいう。

若い世代は「単なる」思考や「単なる」コトバなどを攻撃している点で正しい。
(*しかし)若い世代は「人生を体験する」という変装の元で、
「単なる」感情や「単なる」行為、あるいは人間の他のいずれかの部分的活動に
身をゆだねるときに同じ過ちを犯すことになる。
そのときの「体験」は、知的怠惰になり、実行をぞんざいにすることの言い訳になっている。

*高貴な野蛮人という幻想をもっていたルソーは、
たいへん有害な影響を与えることにもなる。とコンラッド・ローレンツはいう。
この高貴な野蛮人とは、せいぜい白痴(cretin)であろう。
一切を無効にして新たに出発しようとする若者は、
それが石器時代以前のクロマニヨン時代の人間に遡ることを意味する
と考えるのが一番よい。


概念というものが生命を失ってきている今日のような時代にあっては、
概念的思考を投げ出してしまいたい、という
気分的にはよく了解できる傾向が見える。
しかし概念なくしては本物の体験はない。
また、およそ、経験をぬきにして生きた概念はあり得ない。
概念は経験に力を与えるが、概念に内容と生命力を与えるためには
経験が存在しなければならないのである。
 


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Re: 第三章 コトバ―その最初の被害者

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:42 am


 3 コトバとシンボル (0)
(*この章の他項でシンボルに関係していた部分をここに移動)
    -------------------------------------------------

個人は、同時に、他人に束縛されているとともに他人から独立している。
この人間の二重性から、コトバの基礎でありそのきずなを再び確立するための
人間間の関係の橋渡しをする役を果たすシンボルと神話が生まれてくる。

シンボル(symbol)のもつこの「橋渡し」の機能は、
「シンボル」の語源であるギリシア語 súrn=with 、bállein=to throw
からきており..それは文字通り、近づいてくる(draw together)を意味する。
これは 意識と無意識とか、
個人的なものと社会的なもの、
歴史的過去と直接の現在、
といったような
(*互いに)経験の相異なる面を引き寄せるのである。

シンボルは、
もろもろの意味の合流せるものを伝えるものである。
それゆえ、それはまた大きなエネルギーを開放する。
たとえば、若者の長髪やヒッピータイプの衣服は、アメリカの総体的に
競争的で利益追求的(acqisitive)経済に対立するものを象徴している。


アイデンティティ喪失の底にあるものは、
アイデンティティおよびコトバがそこに基礎をおく、
シンボルと神話の持つ説得力の失われていることである。

 

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3 コトバとシンボル(本編)

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 7:44 am



 3 コトバとシンボル

コミュニケートするということは、お互い理解しあうための方法である。
もしかかる方法がないなら、われわれの各自は、
自分のまわりで 言われてることについては何も理解できず、
自分の隣にいる人からは何も感じられない。本当に人の孤立は大きいのである。

(*当時月面着陸報道において使われていた宇宙船外での活動というコトバについて)
その語句は,,きわめてテクニカルなもので,,詩らしきものは何もないし,,
人間的なものを何も含まない。われわれは最終的に、その多音節の語句は、
「月の上を歩くこと」を意味するものである、ということに気づく。
意味深長な個人的コミュニケーションにおいて、
それに応じた発展がないのに、いたずらにテクニカルになれば、
それだけ、われわれもまたますます疎外されてゆくようになる。
そのときコミュケーションはコミュニケ(公式発表)にとって代わられる。

 
コミュニケーションの崩壊は精神的な損傷である。
コトバが、そのコミュニケーションの力を獲得するのは、
それらのコトバがシンボルに参加するという事実からである。
いろんな意味を一つのゲシュタルト(形態)にまとめることによって、
シンボルはシンボルそれ自体よりもはるかに大きな実在を指向するような
神秘的な
(numinous)性格を獲得するのである。

シンボルは、コトバというものに、
ある人間に他の人間の抱いている情緒から何らかの意味を伝えるような
シンボルの力を与える。
それゆえシンボルの崩壊は精神的な悲劇である。シンボルはつねに
それが述べている以上のものを意味している。
シンボルは本質的には内包的である。

このように、コトバがシンボル的であるかぎりにおいて、
コトバはそれが個別的に語り得る以上のものを指摘している。
重要なことは、その残照
(afterglow)であり、
湖の中に落とされた石のようにあらわれてくる意味のさざ波
(ripples)であって、
コトバのもつ外延的な面よりもむしろ内包的なものである。
それは、詩人が使うそれに似たゲシュタルトである。
コトバを口にして話すというまさにその所作を通して
形態というものが出てくるのである
―これは人びとが圧力をかけられて何かを報告するときなぜより詩的になるか、
という理由を説明する。

これは全て、われわれに教えられてきたこととはまさに正反対のことである。
われわれに教えられてきたことは、あるコトバが専門化し
限定されればされるほど、より正確に話せる
ということであった。
たしかにコトバはより正確になる。
しかし、より真実に近づくとはいえない。
というのは、この観点から言えば、われわれは、
自分たちのコトバをますますテクニカルで非人間的で客観的なものにしてゆく傾向にあり、
そうしてついに純粋に科学的な用語で語るようになる。
それは、正当なコミュケーションの方法であり、たしかに技術時代に発展する方法である。
しかしそれはコンピュータ言語に終わってしまう。

即ちそれは、自分の国で、私のそばを歩いている自分の友人について
ほんとに知りたいことが、
われわれ両人があたかも二つの真空管の中にいるもの同志のように、知り得ないのである。



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Re: 第三章 コトバ―その最初の被害者

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