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第二章 イノセンスとある時代の終焉

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第二章 イノセンスとある時代の終焉

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 8:10 am





権力は、..現代文化の中の騒乱のただなかで
自分の立場や地位を得ようとしているあらゆる個人にとって、新しいさし迫った問題である。

こうした時代では無力であるということは
―しばしば疎外とか頼りなさという別名で呼ばれているが―きわめて苦しいものになってきている。

その無力さを
見かけ上の美徳
(virtue)にすることによって、自分の無力感に立ち向かう という方法がある。
個人のがわで意識的に自分の力を剥奪してしまうことである。
これは、力を持たないことが美徳になる。

 それを私はイノセンスと呼ぶ。

このコトバはラテン語のin nocens の派生語であって、
文字通りには 
無害な(not harmful)、罪や罰から解放されている、悪だくみがない(guileless)、純粋、という意味であり、
行動面では、
「悪影響ないし悪い結果を生まない、あるいは悪意から出るものでない」   
ということを意味する。





kusamura
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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 8:18 am


まず最初に当たって、二種類のイノセンスを区別してかからねばならない。

一つは、イマジネーションの特質としてのイノセンスであり,,,
それは成人になっても子どものような潔白さを持っていることである。
万事が新鮮で、純粋で、初々しさや生彩さを持っていることである。

このイノセンスから、畏敬と驚異がでてくる。..
おそらく、それはイエスが
「嬰児のごとくならずんば天国に入るあたわず」
と言ったとき イエスの心の中にあったものである。

またそれは、
悪というものを知覚するというリアリズムを犠牲にすることなく
成熟へ向けての子どもらしい態度を維持することであり、
「悪との複雑なからみあい(complicity with evil)」(アーサー・ミラ-)を保存することである。

これは本物のイノセンスである。


もうひとつのイノセンスは、メルヴィル「ビリー・バッド *」の中にヒントが出ているものである。 

精神的なものに向かうのではなく、むしろ目をくらますもの、別のコトバで言えば
偽似イノセンス(Pseudo innocence)
から成っているイノセンスである。

ナイーブさを利用するので、
決して大きくなりすぎることのない子どもらしさや、ある種の過去への固着から成っている。
無邪気というよりむしろ幼稚だ。

この偽似的イノセンスは ユートピア的理想主義になってしまい、
われわれはそのとき、実際の危険を見る必要がない。
無意識的な目的をもって、現実に目をつむってしまい、
自分たちはそれからもう免れたんだ、と自らを説得してしまう。

(このイノセンスは..ものごとを明るくすっきりはさせない。
 が、見かけの上で、単純かつ容易に見える)
それは実際には、自己破壊的になってしまう。
デーモン的なものを含まないイノセンスは悪になってしまう。
(*ビリーが怒りのあまり上官を殺してしまうように)

このイノセンスは、決して生き抜いてこられたものではなく、
幼児のままに固着してしまうイノセンスで、
ただ、敵対的で冷たい、あるいは支配的な親に対して
身を守るためだけのために、
その幼児性にしがみつくのである。
(これは神経症に見られるイノセンスと平行関係にある)


(こうした)
弱さを利用するという
こみ入ったパターンを発展させた,,人物が利用できる唯一の戦略は、
その情況が必要とする表面上の無力感を、受け容れることであり、
ひそかに手段を弄して、自らの力を取得することである。

私は、本書では、一般には偽似イノセンスを意味するものとして
この
(*イノセンスという)コトバを使おうと思う。
(*偽似)イノセンスは、
自分自身の持っている力
(*悪を含めて)を認めて、
これに向き合うのを「避けるため」の
ごくありふれた防衛手段である。






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Re: 第二章 イノセンスとある時代の終焉

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 8:36 am




○アメリカにおける偽似イノセンス





草の中に一匹の蛇もいない新しいエデンの園といった理想主義者の描くアメリカは、現実には
インディアンの迫害や絶滅とか相対立するものを見る戦いの場であった。

倫理的ジレンマから出てくる混乱と偽善は、
皮肉なことにベンジャミン・フランクリンの著作に示されている。

 「大地の耕作者に余地を与えるため、こうした野蛮人を根絶することが、
 もし神の計画であったとすれば、
 ラム酒が神の定められた手段であるということもありそうもないことではない。
 それはすでに以前、海岸線に住んでいた一切の部族を全滅させている」


フランクリン(によれば)アメリカ人は「大地の耕作者」であり、
インディアンの絶滅は神の意志である。
これは偽似イノセンスの品質証明である。つねに汝の私欲を摂理と同一視せよ。
H・D・グラハム博士やT・R・ガールがつぎのように結論を下しているとおりである。


『おそらく、全ての国民は、
 過去を不快な外傷にしてしまうようなある種の歴史的健忘症(amnesia)
 あるいは選択的回想(selective recollection)に耽りがちである。
 アメリカ人は、ピューリタン以来,,,自分自身を,,,聖なる使命を帯びて
 荒野に送られてきた近代の“選ばれた民”とみなしてきた。)』
              
「アメリカにおける暴力史」グラハム、ガル


憲法の立案者たちが、さらに死ぬほど恐れたものは、
アメリカ人がつねにそうであったような、搾取的な力であった。
彼らが、条文を作成するにあたって意図したことは、
いかなる集団もこの権力を獲得することがないようにということであった。
搾取されることをたいへん恐れた彼らは、条文の中で、
その権力の意味を「全」権力(all power)を含むところにまで拡張しているほどである。

アメリカ人は自分たちのことを、ヨーロッパからの貧窮者を救う者と見ていた。


 私に、あなたの疲れた貧しい
 ほっと一息つきたいとあこがれる
 群がる大衆をよこしなさい。
 あなたの獲物の満ちあふれた海岸に
 難破して打ちあげられた悲惨な人を私に下さい。
 これら、家なく、嵐にほんろうされている人たちを私に送りなさい。
 私はその黄金のドアのかたわらに、ランプをかかげて迎えよう。
                   
                 《自由の女神像 台座の銘記》



(*だが)アメリカでは権力があからさまに拒否されると同時に
殺人率はヨーロッパ諸国の三倍から五倍に達している。
アメリカ人の大部分が、今日、夜間、街路を歩くことを恐れているように思われる。
(*この本は1972年発行)
アメリカ人の性格の中には、明らかにやさしい思いやりの面やあたたかい面と並んで、
この暴力が存在するということである。..
私はこう思う。

「第一に暴力、第二にやさしい思いやり
 ―この両者は、われわれが権力を意識的に否定することと、
 この否定に伴う偽似的イノセンスとで結ばれている」


すでに述べたように、暴力は無力感からくる。
暴力は無気力
(impotence)感の爆発である。

権力志向の拒否は、,,,ほんとうの権力に当然伴うべき責任感を導きださない。
自分たちで、それを持つことを認めていないようなものを所有したからといって
責任感など出てくるものではない。

一国家としてのアメリカは、まざまざとした悲劇感を発達させることに失敗してきた。
悲劇感は、自分の敵への共感を呼ぶのに役立つことからして、
わが内の残酷さをやわらげるはたらきをする。
アメリカ人が世界の悪からいかに隔てられているかを知りたければ、
インドシナを爆撃してきた人たちの報告を読むだけでよい。
その飛行士たちはいう。

 『地上にいる婦人や子どもたちのことなど考えない。
  私の念頭にあるのは、爆撃するという仕事のことだけだ。
  それを立派にやってのけることによろこびを感ずる 』






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Re: 第二章 イノセンスとある時代の終焉

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 8:50 am




○イノセンスの諸相





(*偽似)イノセンスの第二のはるかに重要な表現は、
「法律」というものと、その時点でたまたま社会に存在した特定の「秩序」を
調子よく同一視することである。
私の「秩序」は「正しく」なり..たとえそれが白人の至上権やインディアンの全員抹殺や
あるいは他の種類の偏狭な道徳的尊大さにあるにしても、それは「神の意志」なのである。

法律というものは、それが「正義」と結びつくときには、
より大きな公的な善にむかって絶えず展開する、創造的な一組の原理としても利用されうる。
しかし「法と秩序」という合い言葉によって「秩序」と結びついた「法律」は、
普通では、現状の正当視となる。

現代のような過渡期の時代にあって、どんなことをしても避けなければならない亊は
現状に厳密にしがみつくことである。
過渡期を生き抜く唯一の方法は、変化に順応できる弾力性を持つことである。

「法と秩序」を強調することは、人間の自惚れや自尊心にとって破壊的となり得る。
「法と秩序」を強調することは、それ自体、暴力を助長することになりかねない。


人間のプライドとか自尊心というものは、強制される気配がみえると傷つけられるものある。
暴動をそそのかすもとの一つは、まさに街に百人の警官を整列させることである。
それは、守っている方と守ってもらっている方の双方を怒らせる。
それによってわれわれみんなが、「顔のない他人」になってしまうからである。

「法と秩序」という語句がもっている不愉快さは、その源の一つとして
当人自身の罪に対する反動形成を伴う。

たとえば、私は問題のある偽似合法的な手段によって金銭を得ていたかもしれない。
しかしいま私は、他人が私の金を取り去らないように、
「法と秩序」に対する忠実な市民として立ち現れているのである。

その最良の意味で、また自ずから
「秩序」というのは、それによってわれわれが一緒に生きて働く形式や慣習を意味すべきである。
理想的にいえば、
秩序は、平和や身体的な安全を妨害するような干渉からの自由である。

この身体的安全によってこそ、
知的・情緒的・精神的な目標を追求するための心理的な安全も保証されることになる。

しかしそれが法と結びつくと、それは
古い行動様式にかたくなにしがみつくこと、
過渡的な時代に必要とされる一切の変化を妨げる。


(*古い世代だけではなく)イノセンスというものは、
自らのイノセンスに直面するのを避ける方法として新しい世代によっても利用される。...

若い世代には、年輩の者を責めるだけの十分な理由があるというわけではない。
彼らの父親が生まれ、それを利用しなければならなかったものを使って働いていたような
歴史的状況に身を置いたとしたら、いまの若者なら、
父親たちに代わって、何をしでかすだろうか。
「単に」一世代あとに生まれたということによって、
その正当性が保証されると主張することは非歴史的な見方である。
若者が自分たちのかかえている価値について述べよ、
あるいは新しい世界の中心に何を据えようとしているのか尋ねられたとき、
“決して昆虫を踏みつけてはならない” だとか “ブラスチック製のものを投げ捨てるな”
といったようなくだらない、
もしくは日常繰り返される項目が出てくる。

 これはイノセンスの見えすいた使い方である。


イノセンスというものは、子どものときには本物で愛すべきものである。

幼いころの態度の永続化としてのイノセンス
――子ども盛りのころのイノセンス、
   万人を愛するというあまりにも容易なプラグラムのイノセンス、
   不安あるいは罪の意識のないむき出しのイノセンス、
   自分はまだあたかも子どもであるかのごとき正直さと誠実さの
    「過度」の単純化――

これらは、魅力的ではあるが、
しかし今日の世界では根本的に適応できるものではない。

それは、自然に対しわれわれの要求を聞いてくれることを「期待」し、
われわれを害から守るために自然が備えている中立性を放棄してくれるよう期待するイノセンスである。
それは無責任なイノセンスである。

このタイプのイノセンスは、戦争および機械といった、外的な力の形態とか
あるいは、地位および威信といった、内的な力の形態を含む、
権力の現実に直面しなければならないときの防御壁である
イノセンスがこうしたイノセンス以外(extra innnocent)の目的に使われるという事実は、
イノセンスを疑わしいものにするものである。
責任回避の防御物としてのイノセンスは、成長を妨げる防御物でもある。
こうしたイノセンスは、われわれの新しい認識を妨げ、
人類の苦悩とともによろこびをわがこととして感じ取ることをできなくする。
この苦悩とよろこびは、偽似的なイノセンスの人間には閉ざされているのである。

                                           

                                           

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引用者:註

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 9:01 am

*省略した部分においてロロ・メイは、
若い世代による偽似イノセンスの例として
ヒッピー(この著作が書かれた1972年当時まだ盛んだった)のフラワームーブメント、無邪気な「ピース」的なものを批判した。
ロロ・メイによれば、ヒッピームーブメントは「疑似イノセンス」の定義にぴたりとあてはまっている、とされた。(引用者)


 『偽似的イノセンスは、ユートピア的理想主義になってしまい、
  われわれはそのとき、実際の危険を見る必要がない。
  無意識的な目的をもって、現実に目をつむってしまい、
  自分たちはそれからもう免れたんだ、と自らを説得してしまう。』
 


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Re: 第二章 イノセンスとある時代の終焉

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