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第一章 狂気と無力感 について

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第一章 狂気と無力感 について

投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 9:09 am

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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 9:47 am

叢__農薬  


叢を刈り込むため――農薬収集


ロロ・メイ[わが内なる暴力] ロロ・メイ著作集3  .  2009年08月11日(火) 17:17  No.00001    引用    

ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)訳:小野泰博 誠信書房
(発行:昭和55年) 借り先:公立図書館
*=引用者による補、それ以外の()部分はオリジナル





第一部第一章 狂気と無力感   ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 17:19  No.00002

『権力』というコトバは、ラテン語のPosse
つまり「~ができる」という意味に由来する。

赤ん坊がこの世に生まれるや否や、母乳を求めて泣き、
かつ腕を振り回すなどのさまざまな形で、
そのパワーを出現させるのを見ることができる―
―人間存在における他者への働きかけ としての
協力的・愛情的な側面は、
対抗(coping)と権力の側面と手をとりあってゆく。
およそ生の満足のあるところ、そのいずれをも無視できない。

大地への感謝や、仲間の支持が得られるのは、
われわれが権力(*パワー)を放棄することによってではなく、
そうした権力(*パワー)を、協力的に利用することによって得られる。
                  ̄ ̄ ̄   


抗しがたい必然性に対抗できる幼児の能力は、
成長するにつれて自尊心(self-esteem)保持のための戦いと、
人間としての存在意味を求める戦いになってゆく。

認めてもらいたいという叫びは、
基本となる心理学的な叫びになってゆく。

すなわち、私は、自己主張できることによって、そこに意味をもたせ
意味を「創造」するこの世の中で
「われここにあり」という自己主張ができなければならない。

しかも私は、
この戦いにたいする自然の側のとほうもない無関心に直面して
これを行動に移さねばならない。

                              


第一章 狂気と無力感 (*無力感)  ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 21:54  No.00003

私は、権力というものを、われわれの敵に適用さるべきものといった
誤った表現としてのみ扱う立場を離れ(即ち、敵は権力に駆られているが、
当方は慈悲と理性と道徳によって動かされている、といった言い方)、
それ(*権力)を
生命課程の基本的側面を述べたもの としてとりあげる。

人間生活の大部分は、
一方では権力
(即ち、他者に影響を与え、重要な対人関係の場で自我感を確立してゆく効果的な方法)、
他方では、無力性との間の葛藤として見られ得る。

この感情(無力感*)をシュレジンガーは
『絶えず他者に取り囲まれ、つきまとわれ、追跡されている気持ち』
と書いている。

またモーゲンソーは、政治的なコメントを与えている。
『何世紀にもわたって、
 それを得るために人間の戦ってきた多数決のルール(majority rule)は、
 つぎのような状態を生み出してしまった。
 つまり、150年前に較べて人間はいよいよ無能化し、
 自分たちの政府に影響を与えがたい状況になってきている』

以下われわれ個々人の身に覚えのある無力感をとりあげてみよう

―われわれは多くの人に影響を与えることもできない、
―もはや自分は物の数ではないどうでもよい存在だ、
―自分たちの親がその生涯をかけてきた価値は
  われわれにとっては実体のないものであり無価値なものである、
―自分自身他の人々に対し意味のない『顔のない他者』であると感じとっている、――

自らが自分自身にとっても無意味なものに感じられるということ、
実際これらのことは認めたくないことである。



                          

第一章 狂気と無力感 (*暴力の基盤)
 ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 22:05  No.00004

(アメリカで*)捨て去られつつある価値を二つあげると、
自己-確信(self-affirmation)と 
自己-主張(self-assertion)である。

われわれは、自分の無力感をおおいに増大させ、
暴力噴出の場を設定しつつあるのである。 

暴力の育つ基盤はほかでもない
無気力(impotencet)とアパティ(apathy=感情的鈍磨、無関心)である。

人々を無力化することは、
暴力をコントロールするよりも むしろ、それを増進させる。

現代社会における暴力行為は、主として
自分たちの自尊心を確立し、自我のイメージ(self-image)を防衛し、
自分たちもまた意味のある存在であるということを
他に示そうとする人たちによって遂行されるのである。
それらはなお、
積極的な人間関係をとり結びたいという欲求のあらわれたものである。

暴力は、力の過剰から生まれてくるのではなく、
無力性のゆえに生まれてくるのである。




 

狂気と無力感 (*具体例-ハナ・グリーン)
  ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 22:39  No.00006

「ハナ・グリーンが自分の分裂病体験をもとにした『デボラの世界』を見ると
(16歳の*)彼女は素直で、おだやかさそのものであって、全然怒りを示すようなことはなかった。

彼女は、その必要があるときにはいつでも、
私的な霊界の神話へ引き上げてゆき、
神話的人物と話をしていた。
彼女を治療していた精神科医フロム=ライヒマン博士は、
この神話を尊敬の念をもって扱っており、
ハナに対し、少女にとってそれが必要なかぎり、
とり去ってはならないということを断言している。

(*ところが、博士の夏休み中、彼女を担当した)若い医師は、快活で勇気のある人であったが、
神話的世界を破壊しようとしたのである。

その結果は悲惨なものであった。
暴力の爆発によって、患者は自分自身とロッジ(治療所*)にある自分の所有物に点火し、
生涯にわたる傷跡をのこしてしまった。

若い医師の誤りは、
その神話がハナの存在に意味を与えているものである
ということが解せなかったということである。                                         

--------------------------

問題はその(*ハナの)神話が正しいか間違いかではなく、
彼女にとってその神話が果たしている機能のことである。
どんな攻撃的な行動も不可能に見えたこのおだやかな患者は、
素直な状態から、全くの暴力に揺れ動いたのである。

これは病院の付添人にとっては、
暴力のように見えかつそのように感じられるかもしれない。

しかしそれは疑似暴力(pseudo power)つまり、
無能力が別の形で表現されたものである。

この患者は今日では『狂気』の沙汰のように扱われるかもしれない。
そのことは
彼女が現代社会で受け入れられている基準に合わない、
ということを意味するのである。
つまり、
現代社会はすべての社会と同様、
素直で、おだやかな『顔』を好んでいるのである。

理解しておく必要のあることは

暴力は、
抑圧された怒りや激怒の最終結果 であって、
患者の無力感にもとづく、永続的な恐怖 とむすびついていることである。

この狂気という疑似暴力の背後には、応々にして、
何らかの生きる意味、
つまり、
他人と違う自分を認め、なんらかの自尊心を確立する方法を見つけようと
格闘している人物 がいるのである。 
    

               


                 

狂気と無力感 (*具体例-プリシラ 1)[/b]
ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 22:57  No.00007



「若い音楽家プリシラ―彼女のロールシャッハテストを行った者によると
 彼女は『片足を分裂病にかけ、片足をバナナの皮の上に置いていた』

彼女は決して腹を立てることができなかった。
彼女の自尊心は弱々しく、漠としてほとんどなきに等しいものであった。

しばしば経験したことであるが、
性的にも金銭的にも自分が喰いものにされるようなとき、
彼女は防ぎようもなく、それ以上のことについてはだめ、
という線を引くすべを知らなかった。
また自分を支える怒りを全然もたなかった。
(このような人間は、他人の喰いものになりやすい
 -少なくとも、そうすることによって、
 なんとか他人との人間関係や存在意味を保っているものと思われる)

腹を立てることができないことと並んで、
それに伴う必然的な結果として、深い無力感、それに、
人間関係において他人に影響を与えるなり、働きかける能力を
ほとんど完全なまでに欠いていたのである。

しかし、多くのボーダーライン患者を治療してきてそう思うようになったが、
このような人物は全く別のもうひとつの面をそなえている。
プリシラの見た夢
―切り裂いてカバンに入れられた身体の夢、血と闘争の夢―
は、彼女の意識面の生活が従順であるだけに、夢のほうは暴力的なものになっていた。

われわれは、精神病患者には共通の特徴があり、
その人達の無力感、
それと平行するものが慢性的不安であり、
これが無能力感(impotence)を生む原因であり結果であることを知っている。

-------------------------------------------------------------------
ある思春期の少女は、
昼の日中にたが入りのペチコートを着けたイブニングドレスを着て私に診てもらいに来た。
彼女にしてみれば、
どれほど自分が私の注意や関心を必要としているかを示すジェスチャーとして、
おそらく彼女の持っているもっとも美しいものの一つを身につけて来たのであり、
それは場所柄を心得ぬものであるとみなされそうだということなど、
とんと気づいていないのである。

プリシラのような人物は、こうした生き方をもはや支持できなくなるとき、
彼女の中で何ものかが音をたてて崩れていき、
狂気以外の何ものでもない状態に移ってしまうのである。
その時の人格は、いままでの彼女とはまったく正反対のものになったように見える。
プリシラの見た夢のように、夢のなかの暴力が覚めた生活の内容となる。
その人格は全く狂気のように見える。

彼女自身を含めて、
狂気が日常化してくると、人はおびえるなり自殺を企て、
手首を切り、血を病院のドアになすりつけるが、
これは付添人やインターンを、自分がどれほど必要としているかを
劇的に示すためである。
彼女は、自分自身をはじめ、
自分の投影のきく範囲内のものに対し、
はっきりとした暴力を示す。
                   


狂気と無力感 (*具体例-プリシラ 2)
 ロロ・メイ著  2009年08月12日(水) 00:36  No.00026


「彼女(プリシラ)は、人間が生きてゆく上にきわめて重要な何かを語っていた。
 つまり人間は
『自分の言うことを聞き、認め、知ってくれるだれかを必要としている』 
 ということである。

これによって、人は、
自分は大事なのだ、
自分は人類のひとりとして存在しているのだ、という自信を与えられるのである。

プリシラが私に向かって腹を立てることができた日というのは、
記念すべき日であった。
そのとき彼女は、
広い世間のなかでの他人との接触場面で、自分を防衛でき始めたこと、を
私は承知したからである。

彼女は、
人を愛しうるとともに、
独自性を持った他人からも愛される人間としての自分の能力を
進んで発揮できるようになった、ということである。






最終編集者 kusamura [ Fri May 22, 2015 10:16 am ], 編集回数 1 回

kusamura
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投稿 by kusamura on Fri May 22, 2015 10:14 am



第一章 (2)  狂気と社会 (ある怒り体験  ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 23:03  No.00008    引用    


 プリシラの中に見受けられた
 受動性/狂気といったパターン
 この暴力のことが現代の男女にとって重大な問題になってきている

 分析とか精神病とかとは関係のない私の友人のひとりが
 妻とけんかの末、いかに激怒状態にあるかを私に話してくれた。

 『この激怒は一時的な精神病とどのくらい近似していることか!
  街路上はるかに遠くにあるように見える歩道の上を歩いていたとき、
  私は、考えることができずぼう然とした。しかし、
  外界の認識はぼやけて霧のかかったような状態であるのに、
  内側は過敏で生気にあふれ、考えや感情が過度に認識されるのであった。
  唯一の悔みは、この内的な照明が、外の世界と
  なんらの結びつきも持っていないということである。
  街の通りが空々しい。道にはいつもの通り人の往来があるのに、空虚に見える。
  (何千回も見てきたのに)私にはこの街路のことがよくわからない。

  私はあたかも酔っぱらいのように歩いており、
  足を引っ張りあげ、さらに自分で意識しながら足をおろすのである。
  私は、喰べること、あるいは味についてはたいして興味を覚えない。
  私には、いろんな感情がただ漠然と私の前を通り過ぎてゆくように感ぜられる。
  私は、いさかいのことをこと細かに思い出そうとするのであるが、どうもうまくゆかない。
  二、三のことは、たいへん鮮明に浮かび上がってくる。
  だが残りのことはごちゃまぜの状態である。

  (いつものレストランで*)給仕人がやってきた。
  中年の中国人である。
  彼は自分の額をさした。
  「あなたは問題をかかえてらっしゃる」私はほほえみ、うなづく。

  彼はさらに続ける。
  「今日この頃では、だれもが何か問題を抱えている」
  彼のコトバは不思議と私の心をなごませた。
  そして彼は頭をふりながら遠ざかっていった。

  これは外界へ心が通った最初である。
  それによって、私の心はほころび、
  他人が想像する以上に私の助けになった。

  この状態がかなり長く続くとき、人がどうして自分を傷つけ、
  ときに自動車の前にとびこむ気持になるのが理解できた。
  彼らは、たいていの場合、
  自分のまわりの現実世界についての認識を欠いているために、
  こういうことをやってしまうのである。
  彼らは、またそれを復讐心(revenge)からもやる。
  そうでなければ、鉄砲を手に、他人を射殺してしまう。』

 こうした激しい怒りの状態にとらわれているという体験は、
 “気が狂っている”という歴史的な体験に非常に近い。





第一章 狂気と社会 ((権力的暴力の心理-白人警官と黒人  ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 23:32  No.00010


 (*狂気と権力-暴力)
 激しい怒りの状態にとらわれているという体験は、
 “気が狂っている”という歴史的な体験に非常に近い。

 ハーレムにいる若い黒人のコトバ
 『白人の巡査(cop)という奴は、ひどくサディズム的なヤロウだ。ハーレムにそんな奴いらねえ。
  他の誰よりも、あいつらの方が暴力をふるうじゃねえか。
 奴はだれかれかまわず追いかけたがる。その時、奴はもう気が狂ってしまう。
  奴が気狂いになるって言ってんだよ』

 この黒人の言い分はこうだ。
 ...警官は暴力的反動を刺激することによって、自分自身の怒りを、
 当人が法と秩序だと思っているものを保存するための
 刺激として使用しているのではないか。
 いわば警官というのは、文化的に受け入れられた精神病を利用してそれを現実の状況場面に自分を結びつけるために使っているのではないか。

 (犯罪学教授トッホによるレポート『暴力人間』より)
 『黒人の子供と白人の巡査は、多くの点で不思議と似ている。つまり
 そのプライド、その恐怖感、孤独、自己を顕示したい欲求、とりわけ、他人から尊敬されたいという願望には共通なものが見られる。
  両者とも、自らが作ったのでもなく、また自分ではコントロールできない、しかも
  エスカレートするばかりの葛藤の犠牲であるとともに、それにとらわれている』

 警察官自身の報告からもわかるように、
 彼らは自らを“法と秩序”の擁護者であると自認している。そして
 このことを個々人の自尊心と男性らしさでもって証拠だてようとしている。
  十二分にわかっていることだが、警官というものは
 “法と秩序”という概念をもとに自己を拡大し、
 投影してつくった自我像のなかで、ほんとに自分はそれだけの能力があるのか
 という内的な戦いを続けているのである。

                                                
------------------------------------

 彼ら(白人警察官*)は自分たちに向けられた侮辱は、
 とりもなおさず、国法に対する侮辱である。と解釈するのである。
 つぎに彼らはこう言い張らなくてはならない。
 “犯罪容疑者(suspects)”は、自分たち警官の権威と力のほどを尊敬している。
 彼らは、自分たちの堂々とした男らしさは挑戦を受けており、
 自分たちの自尊心のよりどころである“世間からの評価”は危機に瀕していると。

 ――典型的な一例――
  家庭内いざこざのため呼び出された警官がかけつけてみると
  当の黒人自動車の中に腰かけたままである。しかも
  車のなかのその黒人は、この格好のままで、警官に何か訴えうると考えている。

  『警官は、黒人に車から出るように求める。黒人は「あんたにそんなことを言えた義理はない。私は自分の所有物である、自分の車に乗っているのだから」。
  黒人はいかにも不快そうな様子だ。
  彼の「態度は私を悩ませた」、と警官は報告している。
  黒人は、最終的には車から出たが、トレンチコートのポケットに手を入れたままだった。
  これがまた警官の気に障った。警官は手を出すように要求する。拒み続けるので、もうひとりの警官を呼び、ふたりがかりで黒人の手をポケットから出させる。
  この警官は、この行為を自分の権威に対する許し難い反抗(defiance)であると解している。
  彼としては、どうあっても警官の権威を主張しなければならなかった。(「私は、その男の手をポケットから出させることが至上命令のように思えた。…
  われわれが彼を捕らえたとき、彼は口汚く罵った。…彼はパトカーの後部座席でも、シートの上に小便をかけるぞと脅し、窓ガラスを蹴ったり、叩いたりした」)

 このケース両者とも“暴力的人間(violent men)”である。
 いずれもが、自らの抱いている自我像(self-image)と
 “一個の人間”としての体面を守ることに懸命だったのである。
 しかし警官のほうは、法の強制力とガンとバッジとの同一化によって、
 とりわけ有利な地位にあった。

 “容疑者”というものはたいてい、
 カードは自分に不利な形で積み重ねられていると思っている。
 つまり“決闘”に際して、自分の相手はバッジとガンの後ろに身をかくし、
 そして“容疑者”は、しばしば警官に挑戦して、
 警官のバッジをとりはずし、裸の“人間対人間”の戦いにもどそうとするものである、とトッホは書いている。
  手をとるとか、身体的接触、その他いろんな「触れ合い」が、とりわけ重要である。
 “容疑者”は、自己の肉体の不可侵性(inviolability)を守らなければならないのである。
 警官は“その容疑者”の肉体を踏みにじり(violate)、
 不必要なまでの手荒さで相手をつき回さねばならず、それは
 自分の方の権威にその容疑者をひざまづかせるための手段だと思っている。


 このタイプの警官はほとんどつねに、
 黒人に対しその身分証明(identification)を求めているということである。

 今日、アイデンディディは、きわめて個人的な事柄である。
 心理学的にいうと、身分証明を要求するということは、ある人間に
 身体的に裸になることを要求するのと同じである。
 つまり、すでに劣っていると思い知らされてきた人物に、個人的侮辱をさらに加えることである。
 このことが黒人に暴力(outrage)感を呼び起こし、そこで警官は、
 相手を単にアイデンティティの証明を越えて暴動のふちにまで状況を追いやることになったのだ、と気づくのである。

 こうした暴力行為について注意すべきことは
 結果的に刑務所入りをすることになる人が、その行為を通して
 自分の自己イメージないし、自分についての評判とか自分の正当性を
 ひたすら守ろうとしていることである。

 ほとんどすべての人が何らかの形で、
 自尊心や人間としての自己の存在意味を形成するなり守るために
 闘っている、ということである。
                                         

----------------------------------


 「(*警官と容疑者の)権力闘争は、その立腹は想像上のものであるのに、
 白熱してパラノイドの状態にまでなりうる。それは
 弱いものいじめ(bullying)あるいはその他の逸脱行為に出る場合もある。

 こうした暴力の根拠を理解するためには、こうした行動の背後にある心理ダイナミックスをたずね、
 自尊心を確立し、それを擁護しようとする個々人の戦いのなかに
 その根源をさがしもとめねばならない。
 本質的には、このことは積極的な欲求である――また潜在的には、建設的なものである。

 「暴力は自尊心の低さおよび自己疑惑の上に育つものであり
 暴力は、搾取(exploitation)とその搾取可能性(exploitativeness)の上にはびこる
  ものである」(トッホ「暴力的人間」)

 権勢欲は、自尊心を求める戦いを別のコトバで表現したものであるが、
 これは人間だれにも普遍的に持ち合わせているものである。
 ニューヨークのアティカ刑務所で起こった反抗での、反抗的入獄者の指導者は
 こう宣言している。
 『自分たちは、もはや統計的な扱いを受けたくないし、
  背番号で呼ばれたくない。
 …われわれは、人間として扱ってもらいたいのです。
  われわれは、人間らしい扱いをしてもらおうと思うだけです…』

 前者より年配のもうひとりの入獄者はより現実主義的な見解を述べている。
 『もしわれわれが人間らしい生き方ができないなら、
  すくなくとも人間らしい死に方をしてみたい。』

 歴史の伝えるところだと、彼らのなかの二十八人が、
 数日後、騎馬兵が突撃してきて発砲したときに死んでいる。
 …そしてこれも歴史の語るところだと、
 何人かの受刑者は、自分たち担当の刑務所看守を銃撃から守るために
 身を張って身代わりになって死んだものもあったという。
 




                                   

第一章(2) 狂気と無力感(無力感と薬物
 ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 23:35  No.00011


「無力感に起因するもうひとつの現象は、
薬物嗜癖(drug addiction)という形であらわれている。
無力感をもっとも強く感じとっているのは、若年層である。
薬物嗜癖がもっともはびこっているのも、同じくこの若者たちである。
若者のこの薬物嗜癖は、なによりも各自が
自らの精神を冒涜している(violate)という意味で、ある種の暴力といえる。
この薬物嗜癖の基本は
「あまりにも弱いこと」と「怒りが阻止されてこと」による。

…ヘロイン吸入は、絶えず弱さを感じなければならぬこの不安(discomfort)を吹きとばしてくれる。
…(若い白人男性の場合*)こうした無力感のもとは、一般に
若者が強い父親との人間的つながりを持っていないということである。
(時にそれは母親との関係に帰せられるが、しばしばというほどではない)

自分が同一視すべき男性像(male figure)を欠くので、
父親が外部から持ち込んでくれると考えられる何らの方向性も構造もなく、
それに従うなり反抗するなりして
自分を方向づけることのできる一組の価値というものも欠いているのである。
黒人のケースではこの強き父親の欠如が認められている。
黒人たち場合、問題は外在化されており、したがって
薬物嗜癖は白人の場合のように、重症な疾患にはならない。(*本が書かれた70年代当時*)
白人の場合の薬物嗜癖は、
自分の父親を圧えつけたいというエディプス的な動機を欠いているようである。…

しかし息子は、嗜癖によって父親に復讐することになる。

…この無力感という状況から、治療方法が出てくる
…嗜癖者が腹を立てれば立てるほど――このことは、恨みあるいはその他の間接的な形ではなく、直接的なものだが――
それだけいっそう治りやすくなっていく。

…薬から離れるとき
 嗜癖者は大いに怒りがちである。
即ち
「彼の社会復帰できるかどうかは、
 ひとえにこの怒りのエネルギーによる」。
          (フェニックス・ハウス治療センター)




                                 

第一章(2)狂気と無力感(存在意味を求める叫び
 ロロ・メイ著  2009年08月11日(火) 23:39  No.00013


「権力と意味感覚(sense of signisicance)は、絡み合っている。
…権力というものは典型的に外向性のものであるのに対し、
意味というのは瞑想その他の
内向的・主観的方法によってあらわになる(かつ完成される)。

意味というものは、
それによって自我が統一され、
他者との人間関係をより効果的あらしめるのに役立つことからして、
人間にとっては、権力感覚として体験される。

権力というものは、つねに人間関係的なものである。
もしそれが、純粋に個人的なものの場合には精力(strength)と呼ばれる。

サリバンによると、
重要な他人との対人関係の場で影響力を持つという意味での権力感は、
自尊心を維持する上でも、また成熟過程においても重大なものである。

意味感覚が喪失してしまうと、人間はその意味に代わるものを求めて、
注意を別の、しかもしばしば倒錯せる、
あるいは神経症的な権力形態へ向ける。


暴力あるいは暴力に近い行為は、
人間に自分も物の数に入れてもらえるという感覚や、
重要なのだとか権力のある人間なのだという感覚を与えることになる。
(その感じが代用品(ersatz)であるかないかは、
 その瞬間においては重要なことではない)。
やがて、これはその当人に意味の感覚を与えることになる。

いかなる人間も、
自分は重要なものであるという感覚を持つことなくしては、
そう長くは生きられない。

人間はその意味感覚を得るのに、
 路上で出会った人間を偶然射撃するにせよ、
 あるいは建設的な仕事にせよ、
 それとも反抗あるいは病院での精神的要求にせよ、
 もしくはウォルター・ミッティ(*映画『虹を掴む男(1947)』の
 主人公-白日夢ばかり見ている)のファンタジーによるにせよ、
人は、
『この私はしかるべきものに数えられている』(I count for something)
と感じることができ、
その感じとられた意味を生きぬくことができなければならない。


多くの暴力行為のもとにあるのは、
この意味感覚の欠如と、その意味を求めての戦いである。


                         





狂気と無力感(存在意味を求める叫び 2 暴力は自然か教育か    ロロ・メイ著  2009年08月12日(水) 00:00  No.00014


「1968年の政治的暗殺(*ロバート・F・ケネディマーチン・ルーサー・キング牧師)の余波として、
暴力の原因およびその治療に関する一群の意見や研究が出た。
それらは主として
「自然性」(nature)を強調する人たちと
「教育」(nuture)の方を力説する人たちとの間の論争から成り立っていた。

前者(主として、フロイトにさかのぼる)は、
攻撃性というものは本能的なもので、人間が生得的にそなえているものの一部であり、
人間というものは本来的に攻撃的なのである
というのが全般的な見解である。

この見方によると、
攻撃性は、人間が背負わねばならぬ十字架であって、
せいぜいわれわれ人間にとって希求できることは、
われわれの心情に備わっているこの悪をコントロールするなり、あるいは
戦争その他、文化的に認められた暴力形態によってこの攻撃性を発散させること位である。


「教育」を重んずるもう一方の見解によると、
攻撃というものは文化的現象であって、
マスコミ、欠陥のある教育、とりわけテレビによって引き起こされるものであり、
あるいは少なくともそれらによって増大されるものである。
攻撃性は、われわれの教育方法を変えることで、テレビの番組を統制することで、
抑えることができるなり、それから免れることができるものである。

やっかいなことに、またあまりにもしばしば無視されていることは、
これら両アプローチが、相互に排他的なものではないということである。
攻撃性は、
人間が本来そなえている基本的な装備の一部をなしているものであるが
それはまた文化的に形成され、いっそう激化されるものであり、
すくなくとも部分的に、再方向づけのなされるものである。


もっとも重要な問題は自然と教育双方に根をおろし、
両者を結びつけ、攻撃と暴力と密接な関係にある、価値の問題…である。

われわれは、
価値体制が変更されるのを望んだり
あるいは庭から雑草をつみとるような形で
その他の意識的な手段に訴えて、
価値体制というものを決して変えることはできないのである。


…価値体制を変更するには、いろんな問題にさぐりをいれる必要がある。
暴力とは個々人にとって何なのか。
攻撃や暴力によって、人間はいかなる目的をはたそうとするのか。

人間行動から一切の権力(*パワー)や攻撃性をとり除こうとする
ユートピア的なねらいを持つことによって
われわれは、自己主張(self assertion)自己確信(self affirmation)をとり除く危険をおかし、
さらに必要な権力(*パワー)まで失うことになる。

もしそんなことが成功するなら、それによって
従順で受動的な去勢された人間(eunuchs)を飼育し、
いままで起こってきたことがまるで取るに足らないものにしてしまうような暴力となって爆発する素地
をつくることになる。

かくて、
問題を過度に単純化してしまうと、
われわれは、一方では攻撃に、
他方では去勢された人間に、といった
両者間の選択に問題をしぼっているようにきこえる。

見損なってきたことは、
攻撃性というものが(積極面から見るときは)
もし捨てられるなら
われわれから奪われてしまうような生命の持つもろもろの価値維持に
役立っているということである。




狂気と無力感 (権力の5つのレベル  ロロ・メイ著  2009年08月12日(水) 00:05  No.00015


  権力の5つのレベル(概説*)

攻撃性とか暴力というものを理解するには、問題の基本として
「権力」を見る必要がある 
あらゆる人間の生涯にわたって見られる
潜在力としてあらわれる権力(*パワー)には
五つのレベルがある、ということを私は主張したい。


(*1)『存在への権力』(power to be)
この権力(*パワー)は新生児に見られる。

新生児は、内部の不快のしるしとして、飢えそのほかの要求を満たすため、
泣いたり、激しく腕を動かすことができる。…
(*存在への)権力(*パワー)というものは、
この世に生まれたということによって与えられるものではあるが、
文化そのものによってではなく、
その幼児が「生きている」というまさに紛れもない事実によって与えられる。

ルネ・スピッツが、プエルトリコの哀れなみなし児について研究しているが、
この子供達は、看護婦ないしその他母の代理をしてくれる人から
なんの注意も払われないでいるケースである。
このように、もし自分の行為が
まわりの人たちから反応を得るという経験が否定されるようなら、
幼児は、ベッドの片すみに引きこもり、話さなくなったり、
あるいは別の症状が出てくる。
そして、生理学的にも心理学的にも、文字通りしおれてしまう。
その無能力のゆきつく果ては死である。


(*2)『自己-確認』(self-affirmation)
すべての人間は、単に生きたいという欲求だけではなく、
自分自身の存在を確認したいという欲求を持っている。

人間という生物体には、自我意識というものが天賦のものとして与えられるか
あるいはそれを持つべく定められている。
自我意識は生まれつきのものではなく、
生後数週間後にはじめて発達するものであって
数年間にわたっては十分に発達せず、生涯にわたって発達し続けるのである。

つぎに「意味」の問題がでてくる。
そして自尊心、ないしそれに代わるものを求めて
長いきわめて重要な探求がはじまり、
もし、それが欠けている場合には悲しみに見舞われる。
人間を考える場合、
単に肉体的な生存はもはや主たる問題ではなくて、
何らかの自尊心を伴う生存こそ意味があるのである。

他人から認めてもらいたいための叫びこそ、
自己-確認(self-affirmation)を求める欲求にとっては、
中心になる叫びである。

家族内で当人の存在の意味や承認が許されるなら
その子供は他のことにも注意を向ける(ことができるように*)なる。
(子供だけでなく、親たちももし自己確認というものが阻止されるなら
 全生涯にわたって強迫的欲求となる。)

「もしお前がわれわれの言うことを聞くなら、お前を愛してやろう」

というような親のパターンに直面すると、子どもの自己-確認は
困難になるかもしれない。
かくて子どもは、競争という破壊的な側面、自我と世界の売り買い
といった状況のなかに追い込まれる。
こうした方法あるいは他の方法によって、子どもの自己-確認はゆがめられるか、
徹底的に阻止されてしまう。


(*3)『自己主張』
自己-確認が抵抗に遭遇するとき、われわれはさらに努力を倍増し、
自分の構えに力みを加え、
自らが何であるか、自らが何を信じているかを明らかにし、
われわれは反論を向こうにまわしてそれを明言する。
これが第3段階の自己主張である。

それはより強力な行動形態であって、
自己-確認よりもはるかに明白な自己主張である。

「ここに私はいます。私は
 あなたが私に気づいてくださることを求めます」 と叫ぶとき、
他人はわたしたちを見ざるを得なくなる。

アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』における
(*アメリカのごく普通の平凡なセールスマン)ウィリー・ローマンの妻のスピーチ
『注目されねばなりません』
『ウィリー・ローマンは決してたくさんの金をこしらえてはいません。
 彼の名前は新聞にでたことも全然ありません。...けれども、彼は人間です。
 ...だからみんなから注目されねばなりません。』

われわれの中にはだれか他の人のために擁護しているとき、
よりしっかりと自らを擁護できる人がいる。
これは単にもうひとつ別の自己形態であって、それは、
上品さという規範を守るため、あるいは“自己吹聴などしない”ために
しばしば必要になるものである。


(*4)『攻撃』
第四の段階は攻撃(aggression)である。自己-主張が阻止されるときに
こうしたより強い反動形式が発展しがちである。

ある点で線を引き、「これは私です、これは私のものです」と主張する
自己主張とは対照的に、攻撃性というものは、
権力とか威信のある地位や身分あるいは他人の領域へ移ってゆくものであり、
他人の何がしかを自分のものにしてしまうことである。

強調しておきたいのは、これが各自の中に
潜在力として存在する行動の段階であるということである。

ある期間、個人にとって攻撃的傾向が完全に否定されるとき、
攻撃傾向は、ゾンビのように意識がかき消され他人の意になってしまったり、
神経症や精神病、ないし暴力という形の犠牲を払うことになるのである。

    
(*5)『暴力』
最終的には、
攻撃へ向けての一切の努力が役に立たないときそこに起こるのは
「暴力」として知られている究極的な爆発である。

暴力は主として身体的なものである。というのは
理由付けあるいは説得を含むことができる他の局面は、事実上阻止されてきた。

黒人...身体的奴隷および後になると 心理的奴隷 におかれたままでは
いかに非暴力的であれと言っても困難か、不可能な状況であった。
黒人がまがりなりにも自己-確認を持てる道は、
白人に快い刺激を与えるための歌手や踊り子になって芸人になるか、
それとも、白人の畑を耕作するなり、後になると白人の自動車を組み立てる仕事につくことくらいであった。
こうした事情が黒人をして、その多くを
アパティ(apathy=無感動)の人間にしたり、
後年過激な噴出にいたらせる
もし、他の方面の行動が阻止されているとすれば、
そのとき、暴力への爆発は、
個人ないし集団が耐え難い緊張から解放され
意味感覚を抱きうる、唯一の方法、かもしれない。

暴力のもとは...
他の一切の反応方法が阻止されていると感じられる状況
に対する反応である。
                            



                        

スレッド順位調節用投稿  N  
2009年08月12日(水) 00:34  No.00025

*暴力は 自己の意味を、訴える方法を他に見いだせなくなったときに
     爆発する *


kusamura
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Re: 第一章 狂気と無力感 について

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