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第3部_第8章 人間・時間の超越者(時間;永遠:死

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第3部_第8章 人間・時間の超越者(時間;永遠:死

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:12 am


              第八章 人間・時間の超越者   


    しかし読者の中には、別の疑問をいだかれている方もあるかもしれない。


    「成熟の目的を論ずることは全く結構なことだ。しかし時間は迫っている。
     半ば精神病的状態の世界、それに第3次世界大戦や破滅がついその角あたりを
     うろついているかもしれない今日、
(*当時は東西冷戦状態下)自己実現に必要な、
     時間のかかる着実な発達についてとやかく語っている余裕があるだろうか」 


この問題を具体的に考えてみよう。
 たとえばここに、
 この前の戦争で中尉として勲章を授けられた若い夫がいるとしよう。
 いま彼は、新聞の編集者をやっている。このように彼は
 おそらくだれにも劣らぬ勇気と力をもっている。
 
 海外へ出かける前に、彼は、魅力的で有能なある婦人と結婚した。
 しかし、自分たちが夫婦の間に、重要な問題を抱えていることに気づいた。

 それは精神療法を必要とする、克服に、数ヶ月、おそらく二年を要する 感情面にかかわる問題である。

  「自分はたぶん、遠からず再び徴兵にとられる身である。
 だから
 問題解決に努力したり、とり組んでたたかうねうちがあるだろうか。

 さきのことはだれにもわからない。」 

もう一つ例をあげよう。
 
 若い大学の講師がいる。
 彼は
書き上げるのにおそらく5年はかかり、
 その分野ではかなり科学的に貢献できると思われる本を書くプランに望みをかけている。
 彼はそのすばらしい仕事にとりかかりたいと思ってるのに何かがそれを妨げている。

 どんな本でも、よい本を書くには数年という時間的保証がなくては
 「まじめなことろどうして一冊の本を書けようか」 と彼はためらう。

 たぶん、とかくするうちニューヨークに原子爆弾が落ちるかもしれない。
――いったい何に着手する値打ちがあるだろうか。もうそれは手遅れだ。――
時間の問題は、現代人にとってはもっとも緊迫した不安の焦点である。 

たしかに、各人の私的問題や不安が、現代世界では、
時間が切迫しているという形の関心事になってきている。



 だれしも
自分自身の神経症にたいする一つの言い訳として、
時代の不確かさ、を用いることは、まったくやさしいことである。
われわれは「時代が狂っている」とためいきをつくことをできる。

しかし、われわれの神経症的傾向は、「破滅的状況」という人目をひくことばの陰にかくれて
自分をとりつくろうのが好きであるという傾向からまったく離れても、
そこにいろいろまじめにとり組んでみるべき問題が多々残されている。


現代世界は、将来にわたってしばらくの間、不安時代が継承するであろう。
そして、頭隠して尻隠さずといった道をとらない人はすべてその事実に直面して
不安なままに生きることを学ばなければならない。

「われわれはこの時代に生まれた。われわれはそのことを精一杯活用するのだ」
というような禁欲的な解答で、こうした問題を避けて通るのはよくない。

人間の時間に対する関係―実際には非常に奇妙な関係だが―
それを検討してみよう。
それは、時間を
われわれの敵よりも味方にするのに役立つかどうかを調べるためである。




kusamura
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#2

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:13 am


              人間は物理的時間だけで生きるのではない(1) (*心理的時間)  


    人間のもつユニークな性格の一つは、人間が
自分の現在という時点の外に立ち
    未来ないし過去といったあとさきに、自分を据えてみて、その状況を思い描くことができるという点である。
    


たとえば、
 将軍は、来週または来月展開される戦を計画し、
 もし攻撃を受けたら敵はどう動くか、
 あるいはミサイルが飛んできたらどうなるか、いろいろ予期してかかる

 将軍は、数日ないし数週間前に、想像の働きによって、
 危機にたいし備えることができる。

あるいは
 ある重要な演説を準備中の話し手は、―当人が思慮のある人間ならそうするだろうが―
 自分が似たような演説をしたときのことを思い出すことができる。
 そのとき聴衆がいかに反応したか、その演説のどの部分が成功し、
 どんな態度が最も効果的で、どの部分がそうでなかったか
と回想する。
 話し手はそれらを想像上で再演してみることによって、
 今度はどうすればいいのかを、過去から学ぶことができる。

「あとさきをふりかえる」というこの力は、
自分自身を意識することのできるという人間能力の一部である。


植物や動物たちは量的な時間によって生きている。
そして木は一年ごとにその幹に新たな年齢を加えてゆく。
しかし時間は、人間にとってはまったく違った意味をもってくる。

人は時間を超克する哺乳動物
(the time-surmounting mammal)である。


 意味論についての著作の中で、A・コルジブスキーは、
人間をほかの生き物と区別するところの特性は、『時間-拘束性』の能力
(time-binding capacity)であると主張した。
 「その能力とは、
  人間が
過去の労働や経験の結果を、
  現在の発展の知的、神的な資本として、活用できる能力のことである。・・・
  それはまた、受け継いだ智恵の光の中で自己の生活を営みうる人間を意味する。

  さらにそれは、その能力によって、人間が
  過ぎ去った時代の相続人であり、同時に子孫に対しては
  保管者の役割を果たしうる能力を意味する。」

                     (alfred korzybski,The manhood of humanity,1950)
  



心理的、また精神的にいって、人は時計のみによって生きているのではない。
人間の時間はむしろ、そのできごとの意味
(significance)による。

たとえば
 昨日ある青年は、職場まで地下鉄に乗って、片道1時間をつかい、
 そう興味もない仕事に8時間と、
仕事のあとの10分を、
 最近恋をし、結婚を夢見ている少女との語らいに過ごし

 夕方の2時間を成人学級で過ごした。


 ところで、今日になると、彼は地下鉄での2時間については何も思い出せない。
 ―それはまったく空虚な経験である。
 なにより彼をとらえたのは、少女との10分間である。
 少女との10分間が、その日の残りの20時間より大きな「余地空間」
(room space)をしめているのである。
 


  心理的時間は、時間のそのものの正味の経過ではなく、
 その時間内の体験の意味
(meaning)である。
 当人の希望や、不安、成長にとって意味のあることである。



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#3

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:14 am


              人間は物理的時間だけで生きるのではない(2)(*記憶、時間の質)  

     たいへん興味のあることは、たった昨日起こった九十九%の事件よりも
      数十年年前、子どもの時に起こったわずかな事件のほうが生き生きと思い出されるということである。



記憶というものは、われわれの上にしるしづけられた過去時の痕跡ではない。
記憶はわれわれのもっとも深い希望や恐怖にとって有意味なものを保管しているのである。

記憶というものは、人間が
時間にたいしてしなやかで、創造的な関係をもっているということの一つの証拠である。
導き手になる原理は、
時計ではなくて、われわれの経験する、体験の質的な意味である。

 このことは、量的時間を無視できるといっているのではない。
われわれは時間のみによって生きるのではない、ということに簡単に触れただけである。


人間は常に自然界の要素であって、あらゆる点で、自然に包み込まれている。
われわれは齢をとっていく。あるいは一息にあまり長く働くと疲れてしまう。

しかもわれわれは時計やカレンダーによる時間の経過に対しては、
現実主義的に対処しなければならない。この必然を逃れるすべはない。

時間を認識することによって、
人間はいくつかの方法で時間をコントロールし、利用できるのである。
人が自分自身の生活を意識的に方向づけることができればできるほど、
それだけいっそう時間を建設的に役立つよう利用することができる。



しかし、
その人間が順応型の人間
(conformist)であって、
自由がなく、人間的に分化されていないならば、いないだけ、
当人によって働くのではなく、強迫によって働き、それだけいっそう
量的時間の対象となる。

 彼は時計とか汽笛とかによって表される時間に奉仕する召使いに等しい。
彼は毎週、これこれのクラスで授業をもつとか、
一時間につき、リベットにいくつ穴をあけるかという生活になる。
そして、その日が仕事がはじまる月曜であるか、金曜あるいは週末なのかどうかによって
いいとか悪いとかを感じるようになる。
その仕事にどれだけ時間を費やしたたかによって報酬を測ったり、
また報酬の不足を訴える。

その人間が順応型であって、自由のない人間であればあるほど、それだけいっそう、
時間に支配される人物となる。

刑務所にいること、つまり服役という意味を英語では“時間に奉仕する”(serve time)ということばで表わす。


E・カミングスは述べている。
「真剣に
(intensely)生きている人がほんとうに人生を生きているのである。
 120才まで生きる人がかならずしも生きているということには決してならない。
 『自分は全生涯を一瞬に生きた』という人がある。
 このきまり文句はたしかに真実である。
 そして、その逆、長距離列車に乗ること、それは胸くそが悪くなるように退屈
(stinking bore)である。
 暇つぶし(to kill time)のために人は探偵小説を読む。
 もし時間がそんなにいいものなら、なぜ時間をつぶすのか。」


その人の生きがい(alive)が乏しければとぼしいほど
―「生きがい」をここでは自己の生活についての意識的な方向づけをもっている、という意味に考えると―
それだけいっそう彼にとっての時間は時計の時間である。
当人がいきがいを感じていればいるほど、彼は質的時間によって生きていることになる。




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#4

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:14 am

              人間は物理的時間だけで生きるのではない(3)(*時間と空虚)  



  現代の課題である「時が過ぎ去っていく」ことについての不安は、
  緊迫した戦争(*あるいは経済破綻)の危機感とか水素爆弾のおびやかしといったもの以上に
  もっと深いところからやってくる。


いつの時代でも、過ぎゆく時は、人間をおびやかす力をもっているものである。
犬は、また一ヶ月とか一年が過ぎてしまったことについて、気を揉むことはない。
しかし人は多くの場合、時の過ぎ去ることを考え出すと、突如として心を捕らえられてしまう。

いかに人々が時間によっておびやかされているかのもっともはっきりした例は
齢をとることの恐怖である。こうした不安は次のような事実を象徴している。
人が時間を意識していることは、つねに当人が、精一杯生きているか成長しつつあるか、
あるいはたんに、究極の衰退や消滅を防ごうとしているのか、という問いへの直面である。

その人間が、いまほんとうに生きていないとき、人は齢をとることをおそれてるものだ
ということを十分はっきり述べたのはC・G・ユングであったと思う。したがって
齢をとっていくことをめぐる不安に対処する最上の方法は、
その瞬間に自分が精一杯生きていることを確認することである。

 

 しかしさらに大事なことだが、
人間が時を恐れる理由は、ひとりぼっちでいるときのように、
空虚さという妖怪、戦慄させるような「無」
(void)の深淵を呼び起こすからである。
日常生活のレベルでは、これは退屈することのおそろしさとして出てくる。

E・フロムが述べているように、
人間は「退屈しうる唯一の動物である」。そして
退屈は「人間の職業病
(occupational disease)である」。


 興味あることであるが、われわれは
退屈してくると「ねむくなる」くせがある。
つまり意識をかき消してしまい「死滅」
(extinct)に近い状態になろうとする。
だれもがなんらかの退屈の経験がある。
人間のやる多くの仕事は、多かれ少なかれ、きまりきった仕事によって貫かれている。
仕事というものは、何か、或る、より大きな目標達成に必要なものとして自分自身によって
自由に選ばれるが、それが確かめられないときには、それは耐え難いものになってしまう。


 こうした日常レベルでないところで、
空虚な時間が予期されるときには、それは不安になる。
もし、することが何もなければ、不安定感
(uncertainty)で、
気が狂う
(go crazy)のではないかと思う。

現代の多くの人が経験しているように、
内的な虚ろさ
(inner emptiness)のため、
「人生が無意味にみえてくる」とき、実際つぎのようになる。

 あした、またあした、というふうに あしたが
 一日一日 このささやかな空間へしのび寄ってくる
 記録される最後の時まで
 そして 昨日にくりこまれていった一切の月日が愚かなもののために
 無味乾燥な死への道を照らしだしてくれる



このような状態のとき、人間のだく第一の願いは、時間を消すか
(blot out)
あるいは時間にたいして、自分自身を無感覚に
(anesthetic)にしてしまうことである。
これら努力は、陶酔の形をとるか―極端な場合には―薬物に耽溺するか、
比較的ありふれた形としては、「時間を速やかに過ぎさせるため」
その時間を何かで埋め合わせすることである。


 もし自分で意識しないで、長い時間が過ぎてしまった場合、
人々は「よい時をもった」
(have a good time)ととるということは、
時間について人間の抱いている恐怖感を不思議と説明している。
「よい時」とは、退屈をのがれることと規定される。



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#5

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:15 am


              人間は物理的時間だけで生きるのではない(4)(*過去・現在・未来)  


   人間は、木や動物と違って、(*現在を)逃避するため、現在の外側に立ち、
   過去を利用し、あるいは未来を利用することができる。


未来に生きることによって現在を避けるというもっともしばしば引用される例は、
現在のもろもろの悪事は、天国で訂正され、賞罰はそこで割り振られるというゆがんだ考えである。

帝政ロシアにみられたように、
保守的な宗教では、人々の心を現実の社会的・経済的不正を
未来での報いを持ち出すことによってそらす
という傾向は、マルクスに攻撃された点で、それは正しい。
その場合の宗教は、人々を無感覚にする薬物、アヘンの役を果たしている。



 さらに日常的なレベルでいえば、
もっか直面している生活に何か問題が起こると、多くの人は「大学を卒業してしまえば」「結婚すれば」とか
あるいは、「新しい仕事につけば」万事もっとよくなるであろう、と自らなぐさめる傾向にある。
実際、多くの人々は、
不幸や退屈あるいは目的喪失の状態に遭遇すると、
「どんなたのしいことを未来に待ち望むべきか」という問いかけで、
心を自動的に現在から未来へ向きかえるのである。
そのとき、
未来への「希望」をつなぐことは、実際には、現在を弱めてしまうことになる。

しかし希望というものはなにも「アヘン」として持ちいられる必要はない。
その創造的、健康的な意味での希望は―それが宗教的充実、幸福な結婚、仕事での目標達成への希望であれ―
その人にエネルギーを付加することになり、
なにか未来のできごとについてのよろこびを現在にもちきたすことで、すなわち
未来を予期することによって、われわれは、もっと現在に生き、現在を活用できるのである。


 未来の希望に生きることが、
素朴な人々のとる普通の逃避傾向だといわれる。

一方過去に生きる方は、
世慣れた人によくみられる逃避のしかたかもしれない。


 治療場面でわかることは、
後者のタイプの人は、天国における将来の報いという希望のつなぎ方へ逃れるのを
旧式だといっているのではない。
しかし彼らは、過去について語ることのほうが立派だと学んできたのである。

(*後者タイプの)ある人が、妻とのいさかいのあと治療にやってくる時、話題は
彼が幼稚園児のとき母親が自分にたいし何をやったとか、最初のガールフレンドといかに仲良くしたか
ということである。
このことのほうが、
何がその喧嘩の原因なのか、そして妻と現在の関係にいたった動機は何かといった
直接の問題に直面することより、その人にとってはやさしいことだからである。

一般に、その人が
自分の過去を逃避として用いているか、(この場合、過去について語ることは彼になんの変化もおこさない)あるいは
現状のもとになるダイナミックの解明や解放の源として用いているかどうか、
幸いなことに治療者にはわかるのである。



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#6

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:20 am


              人間は物理的時間だけで生きるのではない(5)(*時間の超克,ファウスト)  


      さて、ここで、時間超克の建設的な方法について語ろう。


時間を超克しようとする努力についてのすぐれた描写は、ゲーテの「ファウスト」に見られる。

 ファウストは退屈で「あきあきしており」、あれこれやってみるがいっこうに満足されず、
 持続的な価値観を彼に与えてくれるような生き方を見いだすことができないでいた。
 悪魔は、怠けもののために働くという俗諺がある。
 ファウストは、悪魔のメエフィストレス
(*以下"メフィストフェレス)と盟約した。
 ゲーテは、メフィストフェレスにとって 時間は“まったく単調だ” と言わせている。

   この終わりなき創造のいとなみ・・・
   そんなものは いまだかってなかったのも同然だ
   だが そんなものが あたかもあったかのように
   時は 円環をなして動いている
   俺はむしろ そんなものの代わりに
   永遠の「無」を 選びたい



 メフィストフェレスの住む国は、単調と空虚
(monotony and void)が支配する国である。

 物語の進行につれ、ファウストには望むものすべてが与えられる。
 恋人マーガレット、のちにはトロイのヘレン
 次に智恵、権力、そして最後には
 よどんだ沼地に、緑の野を出現させようと、海を押し返すため堤の建設を企てる。
 ファウストの支配下にある人々は、そこで土を耕し、食べ物を栽培することができる。
 彼らの牛、豚の群れはまるまると成長する。

 ファウストは、
 彼の文化的、および自然創造活動によって人々がよろこんでいるのを知ったとき
 いままでけっして味わったことのないもの、
 すなわち、永遠の瞬間
(etarnal moment)というよろこびを経験する。


   そのとき 私は
とび去っていく瞬間 を進んで歓呼した
   「ああ、まて時よ、おまえはあまりにも美しい」


   地上のものである 私のその痕跡

   永遠に滅びることはない ―それは そこにある
   壮大な幸福のほこらしき予感につつまれ
   わたしはいま この 無上の瞬間 を享楽する



「自己の地上的存在の痕跡」が
(*地上のものである 私のその痕跡
その行動によって、永遠の意味をもつ
というファウストのこれらのことばは、われわれに次の疑問を起こさせる。

では、
「逃げ去っていく瞬間」
(*とび去っていく瞬間の意味をいかにしてみいだすのか。


  
  

 

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#7

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:21 am



                    満たされた時(1)(*「現在」と過去、未来)  

      時間を建設的に活用する必要な条件は、現在の瞬間 という現実の中での生き方を学ぶことである。


心理学的にいうと、現在の瞬間 こそ われわれのもっているすべてである。
過去と未来に意味があるのは、それが現在の一部だからである。

過去のできごとが いま存在するのは、
過去のできごとについて、現在の瞬間に考え続けているから か、または
現在生きているものとしてのわれわれが、過去とは非常に違ったものになるほど、
過去が非常に影響を与える からである。



未来が現実性をもつのは
われわれが、未来を、現在自分の心の中にもち込むことができるからである。

過去も一度は現在であった。
未来もやがてきたるべき瞬間には現在になる。
未来の「ある時」、過去の「その時」に生きようとするのは
人為的な営み(artificiality)であって、
現実からの、自己意識の分離、を含んでいる。

過去は、
現在を解明するとき意味をもち
未来は、
現在をより豊かなもの、より深いものにするとき意味をもつ。




 各自が、直接自分自身の内側に目をやるとき、
彼が認識する一切は、
現在という、その特定の瞬間における当人の瞬間的意識である。
もっともリアルなものは、意識のこの瞬間である。

オットー・ランク博士は、
過去と未来が、心理的現在に生きているということを、もっとも力説した治療家である。
1920年代には、正統派精神分析は、
過去への人工的な回遊
(artificial excursions)を行い、過去へ沈みつつあった。
こうした人工的な回遊は現実性と力動性を欠き
、―いかに考古学的な探求の面白みがあろうと―
他人の生活を変革する力のないもので、そのためフロイドは学者たちを攻撃している。

ランクは、幼児期の対人関係のような、当人の過去において重要であったことがらが、
その人の現在の関係の中にももちこまれることを示すことによって、
精神療法を現実へひきもどしたのである。


幼児期における父母との関係は、
現在の治療家、妻、雇い人の扱い方(フロイドが転移
(*詳細)とよぶもの)になって現れる。

われわれは、治療中に、かかる過去の関係について「語る」必要がない。
ことば以上に雄弁な行動として、その基本的な葛藤は直接相談室で出てくる。
患者は、自分がこれは自分が演出しているものだということに気づいていないかもしれない。
治療にあたっては「経験すること」自体が、経験について「語る」以上に、はるかに有力で、
治療効果がある。



 直接の現在に生きるということは、決してみかけほどやさしいものではない。
それには、経験する「主我」("I")としての自分自身 についての高度な認識を必要とするからである。

行為する人として自分自身を意識することが少なければ少ないほど、
つまり
不自由で、自動的であればあるほど、それだけ当人は、直接の現在をじかに認識すること がいっそう少なくなる。
 無意味なきまりきった仕事の退屈さを避けようとした人が記述しているように、
 「自分はあたかもほかのだれかのように働いている。自分自身ではない。」
 
このような状況において、
われわれは、自分のやっていることから「百マイルも離れているかのように」感じ、
あたかも「茫然自失」
(in a daze)の態で行為し、あるいは、夢かうつつの中にいるかのように、あるいは、
まるで自己と現在との間に壁があるかのようにふるまうのである。

 
 しかし、人の、現在についての認識が高まれば高まるほど、つまり
自分のやっていることについて、自分を行動し、指針をもった行為主体として経験する度合が、強ければ強いほど、
それだけ彼は生きがいを覚え、現在の瞬間にたいし、より反応しやすくなる。

自己-認識それ自体と同様、
現在という現実体験も開発されるものである。
まさにこの瞬間に自分は何を体験しているのか
と自問してみることはしばしば有用である。

また、この与えられた瞬間に、
自分はどこにいるのか、
 ―自分にとって情動的にもっとも重要なものは何であるか

をたずねてみることも有益である。





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#8

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:22 am


                   満たされた時(2)(*「現在」と不安)  



      いまの瞬間という現実に直面することは、しばしば不安を伴う。

そのもっとも基本的なレベルにおいて、
この不安は、「自分がむきだしのまま人前にさらされている。」といった漠然とした経験である。
それは
その前に立ってしりごみもできず、
そこから退くことも、かくれることもできない何かある重要な現実に直面している、という感じである。
それは、自分が愛し、賞でている当の相手に突然直面するとき抱くような感じに似ている。

われわれはそれに反応しなければならない。
また、それについて何かやらなければならない激しい関係に直面させられる。
それは強烈な体験であって、その瞬間の現実にただちに、じかに直面することであり、
はげしい創造活動に似ている。
また、その時でてくるのは創造的よろこびだけなく、
人は剥き出しの状態
(nakedness)や創造的不安にさらされる。



 現在に直面することがなぜ不安をひきおこすのか、もっとはっきりした理由は
それが決断と責任の問題をよび起こすからである。

われわれは過ぎ去ったことについては大したことはできない。
遠い未来については、さらにほとんど手を下すことができない。
そのとき、過去や未来について夢みることはなんとたのしいことか。

生涯かけてやらねばならぬことをめぐって苦悩することから解放され、
それをめぐるわずらわしい思考からどうすれば救われるのか。

 妻といさかいをやった男は、自分の母親についてあざやかに語ることができる。
 しかし、早晩、妻とのいさかいのことをよく考えてみなければならない。

 それは、そのことについて何をやろうとしているのかと問題を考えることになる。
 「自分の社会生活についていま、なぜなにかをやらねいのか」という問題に直面するより
 「自分が結婚するとき」のことについて夢みることの方がはるかにやさしい。


 またその瞬間、自分の勉学はもっと活発にならないのか、そして
 とにかく自分が大学生であることの動機は何なのかと考えるよりは、
 大学卒業後の自分の仕事について黙想することの方がずっと簡単である。



未来のはらむ価値を確保するためのもっとも有効な方法は、
建設的に現在に立ち向かうことである。
ファウストは、さきの引用のなかで、
「自己の地上的存在の足跡は永劫に続くものである」と述べている。
すなわち、一切の創造的行為はその永遠の相
(eternal aspect)
をもっているということである。

それは、人間が意識して行う創造行為の本質的性格は、それが量的時間によって限定されないからである。
われわれが絵画を評価する場合、
その価値を、それを描くのに要した時間や、その絵画のサイズで決められるだろうか。


 しかし、
これがわれわれを「永遠の生命」
(eternal life)というゆがめられた宗教観に導くのである。





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#9

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:22 am


                   満たされた時(3) (*永遠)  



「永遠の生命」という語句はまるで永遠
(eternity)というものが
一年また一年無限につづいていくことを意味するかのように、終わりなき時をさすものとして一般にもちいられている。


このような考え方は、
しばしばある人たちによって思い描かれる次のような問いにうかがえる。

 その質問の動機は知るよしもないが、大通りの通行人にたいし建物の両側から

 「あなたは、どこで、永遠を消費する
(spend)つもりですか」
 と問いかける場面である。

考えてみるとこれは変な質問である。
「消費」するという言葉は、一定の量が仮定されている。
もしあなたが、あなたの持ち金の半分を使ってしまえば、一定の量が残ることになる。
われわれは、永遠という時間の半分とか3分の1とかを消費できるものだろうか。


永遠についてのこうした考え方は、心理学的に矛盾したものであるばかりでなく、
それは論理的にも不合理であるし、神学的にも根拠のないことである。

 永遠は時間の一定量ではない。永遠は時間を超越する。
永遠とは時間の質的な意味のことをいっているのである。

人は音楽に耳を傾ける体験と永遠のもつ神学的な意味を同一視する必要はない。
それは次のように考えられる。
音楽、あるいは愛、または誠実さから発するものならいかなるいとなみにせよ、
「永遠なるもの」は、
人生へのかかわり方へのひとつであり、明日という日の連続ではない、と。


 したがって、イエスは「天国は汝の中にあり」と宣言している。
すなわち
あなたの永遠体験は、あなたが各所与の瞬間にいかにかかわるか、―それともぜんぜんかかわりを持たないか―
その対処のしかたの中に見いだされるのである。
「永遠」は存在の質として 現在の瞬間にはいってくる。



「永遠」ということばゆがめられて用いられるため、多くの知識人は、
このことばの使用をさけるようになった
それは不幸なことであった。それは人間経験の重要な一面を無視することになる。、


「時間問題が哲学の根本問題であるのも当然である。」とベルジャーエフは書いている。

「時間における一瞬に価値があるのは、
 その一瞬が永遠に結びついており、永遠の原子であることによって、
 終わりなき時間に一つの出口(issu)を用意するからである。」  
(Nicollai Berdyaev,'Spirit and Reality')



今の瞬間は時計の針の一点から一点への距離に限定されない。
瞬間は常に「孕まれたもの」であり、常に外へ向かって開く準備があり、生まれ出ようとしている。


われわれのただやらねばならないことは、
自らの内を深く凝視する実験である。
たとえば手当たりしだいに、ある考えを追跡する実験である。
そうすれば
人間の心の中で意識されている瞬間は、非常に豊かであって、連想や新しい考えがあらゆる方向に手招きしているのがわかる。


 あるいは夢のことを考えてみよう。
夢は警報がでるときのように、意識のひらめきとしてあらわれる。
しかも夢が描写しているすべてをことばで表現しようとすると長い時間がかかる。
たしかにわれわれは採集し、選択する。

 もしわれわれが作曲したり、精神分析をやったり、
 空想のなかで自分の仕事のプランを考えるとき、

 自分の夢あるいは空想を一時的にはやれても、ずっと持ちこたえることをしない

 その時でさえ、次第にあらわになってくる可能性の予感が現実にたいしてもつ関係は、
 はっきり意識されている。

このように、瞬間というものは、哲学的用語をもちいると、
「有限性」の側面をもっており、それはつねに新しい可能性をもってさし招いている。


人間にとって時間は、回廊ではない。
それは連続的展開
(continual opening out)
である。









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#10

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:23 am


                   永遠の光のもとで  



    量的な時間は、ありきたりの単調な時を刻んでいる。

しかし、時にそこから衝撃を与えるような経験が生まれる。
それは何度も経験することである。

その中で主なものは、死についての思いである。



 英国のある現代作家は述懐している。
 彼は伝統的な方法に従ってものを書こうと何年も努力していた。

 「自分は公式通りにやれば書けると思った」


 そして何年もの間かれは、平々凡々のとぼとぼ歩きをしてきた。
 しかし戦争中のこと、彼のことばによると
 「なぜいままで自分のものが出版されないかがわかった。・・・

  戦争中われわれはみんな、明日は死ぬかもしれないと考えていた。
  そのとき、私は私の書きたいものを書こうと決心した。」


 実際にあったことであるが、彼の作品は成功したと申し上げると
 この例を、伝統的な成功のモラルでもって説明される方があるかもしれない。
 つまり「もし、あなたが成功したいなら、あなたの書きたいものを書きなさい」と。
 しかしもちろん、こうしたモラルはまとをはずれている。


外面的基準に従い、かくれた目的のために書こうという欲求をあらかじめもってかかることは
―成功ということが今日では主要目的であるが―
作家としての彼の資質、力量を開発する点で、確かに彼を妨げるものである。
そして
死に直面したとき、彼の断念したのは、まさにこの欲求であった。



もしわれわれが明日死ぬかもしれないという状況におかれたとき、
この基準、あの方式に合わせようとする努力を、われわれの自我がなぜ放棄してしまうのか。

成功と報酬は、ありきたりの方式に従って書くことによって達成されることもあるとしよう。
―それはいつでもどちらともいえないが―
しかしわれわれは、その報酬をよろこぶに至るまで、
十分さまよっていないかもしれない。
とすれば、なぜわれわれは、内なる声に忠実に、いま書いている瞬間を享受するよう、とりはからないのか。


 自分は死ぬかもしれないという思いは、われわれに衝撃を与えて、
時間の単調な歩みからわれわれを解放してくれる。

その一事が、われわれは無限に生きていけるものではない、ということを
きわめてあざやかに思い出させてくれるからである。
それはわれわれを動かして、現在にまじめに取り組むようにさせる。
われわれは、永遠にぶらぶら待っていることはできない。

われわれが死んでいないとはいえ、われわれはいつかは死ぬのだという事実は、
われわれにとって、きわめて重大な意味をもっている。そこで、
うろたえるより、なぜ、少なくとも、心を惹かれる何かを選びとらないのか。


 旧約聖書、「伝道の書」のいわゆる皮肉な詩人は、事実、
 この点できわめて現実主義的な見方をしている。
 繰り返される反復句「すべては空し」の中で、賢者は未来の報償や罰をぶらぶら待つこををしないと述べている。

汝の手がなすべきものを見いだしたら、 それが何であろうと、それを汝の力でやれ。
 汝の行きつく墓場には、仕事も、財産も、智恵もないからである

(*伝導の書 第9章10節)



 スピノザは、
 人は永遠の相の下で
(sub spacie aeternitatis)行為すべきである、ということばが好きであった。
 「というのは、私は永遠というものを、存在それ自体だと理解する。 ・・・
  というのは、永遠の真理というようなものの存在を、持続や時間によって説明することはできないからだ。」

あるものが存在するか否かは、そのものの本質いかんによる。
―これはスピノザによると、一見してうける印象ほど難解な思想ではないという。
 
それをわれわれの自己意識というものに適用してみると
われわれ人間は、自分の行為が、
自分自身の本質センターから出るかぎりにおいて、
「永遠の相の下で」行動することになる。



上述の英国作家の例では、こうした行為が、
“書くのだ。”という彼の決意となってはっきり現れており、それは
外側の変化つねなき気まぐれによっているのではない。
そんな気まぐれは週が変わるごとに浮き沈みするものである。

彼の行動は
彼をして、彼たらしめている、内面的な、ユニークな、独創的な性格からでている決意
にもとづくものである。



 永遠の瞬間に生きるということは、
その生き方がたんに強烈
(intensity)であるということではない。
(自己-認識はつねに、その人の体験に、ある強烈さを加えることはある)

それはまた、
宗教、そのほかの絶対的ドグマ、道徳的規範、によって生きることを意味しない。

むしろそれは、
自由に責任をもって、人間としての自己認識にたち、
自分自身のユニークな個性に則って決断を下すことである。







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#11

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:24 am


                   いかなる時代にめぐり会おうとも(最終項)(前)  

                 本章の論議から導き出したい結論は次のようなことである。



もっとも深いレベルにおいては、
われわれがどんな時代に生きているかいうことは問題にならない。
基本となる問題は、

自己自身、および自分の住んでいる時代というものを良く認識して、
その個人が、いかにして、自己の決断を経て、内なる自由に達し、
自分自身の内なる誠実さに従って生きることができるか
ということである。




われわれが生きている時代の、戦争、経済的葛藤、不安、業績といったあらゆる面で、
われわれは、われわれの時代の本質的要素
(part-and-parcel)である。


どんなに「よく統合されている」社会でも、
自己認識を成就する行為や、自分自身の選択を責任をもって行う能力を、
その個人になり代わって行うことはできないし、
またその仕事を当人からとり除くこともできない。

いかなる外傷的世界状況も、自分自身について究極的な決断をくだす特権を、
その個人から奪いとることはできない。



 表面的なレベルでは、どんな時代に生きていようと、利点もあれば不都合もある。
しかし、さらに深いレベルでは、自ら自分自身を意識しなければならず、
自分の住む特定の時代を超えたレベルで自己の発見をすることになる。

われわれのたどる年齢についても同じ事がいえる。
 当人が二十才、四十才、六十才、であるかどうかは重要ではない。

大事なことは、
発達の各段階で、当人が自覚的な選択能力を充足できるかどうかである。
これが、
八才の健康なこどもが、三十才の神経症的大人よりも、
よりいっそう人間的であり得る理由である。

 そのこどもは、年齢の上でより成熟しているわけではない。
 大人と同じことができるわけでもない。
 おなじく、自分自身のことが十分やれるというのでもない。

しかし、当人の感情生活の真摯さ、独創性、および
発達の各段階に応じた問題に際し、選択をおこないうる能力 
ということでその成熟度を判断すると、彼ははるかに高い成熟を示しているといえる。


自分が三十五才になったら、生き始めよう」という二十才の人の言い分は、
四十才、五十才になって「自分は若さを失ってしまったので、生きてゆけない」と嘆息するのと同様、
もとづくところが誤っている。
十分興味のあることであるが、よくみてみるとこれは実は同じ人間のことを言っているのである。
五十才で泣きごとをいう人は、また二十才でも生きることを引きのばしていたのである。


この時間の超越性については、オレステスのドラマの中でも見られる。
(*オレステス第4章#4)

 近親相姦の輪から自由になろうと悲劇的な闘いを続けるオレステスは、
 ある程度、自分を「他人の目」でみるという傾向を克服できた。
 そして、
 真実をある程度、客観的に見、「外側に向かって愛する」ことができるようになった。

これはすべて“永遠の相の下で”生きる生き方である。


それは、その瞬間の所与の状況を超克できる人間の能力を示している。
それには、都市国家ミケーネを超出することが含まれている。
あるいは
オレステスが象徴的に表現しているように、
その都市の限界を脱して、「人間性に向かって」前進することを意味している。



ジェファースの脚色したドラマの最後の場面で、
オレステスがそうした超克の段階をあとにするとき、“青年の究極の死”について語るが、
その結びのことばは、ここで述べようとする要点を正確に表現している。

 
  しかし 若いとか歳とっているとか
  数年とか長い年月とかいったって
  はっきり 目ざめて 時間を超克して
  塔にのぼった彼にとって それは 
  どうでもよいことであった……。








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#12

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:25 am


                   いかなる時代にめぐり会おうとも(後)  

 

  人間が人間としてやるべき仕事であり、またやり通せることは、
マス(mass=大衆、かたまり)の一部、
(このマスというのは胎児としての人間存在の事実上の萌芽状態であるし、
 また、順応主義者の大衆、つまり自動機械的社会の一部であることもある)
つまり、
考えることもない、自由のない一構成部分としてのもとの状態 を脱して、
子宮からでること、
そして、
子宮からでたばかりの近親相姦的サークルを過ぎ、
自己認識の誕生体験、 成長の危機、 闘争、 選択、
なれ親しんだものから未知のものへの前進をへて

めざす目標は、 
自我意識の不断の拡大、 自由と責任の拡大であり、
自由に選んだ愛と、創造的な仕事によって他人と自分が前進的に統合される、
より高度の分化水準である。


 実際ここで述べたいことは
人間の生きる目標は、各瞬間を自由に、正直に、責任をもって生きることである。
各瞬間に
自分が自分自身の本性や日々発展的な仕事をできるだけ実現していくことである。
このようにして、
自分自身の本性の実現に従うよろこびと満足を経験するのである。

 若い講師が、最終的に自分の本を完成する、しないは二次的な問題である。
 第一の問題は、彼であろうとほかの人間であろうと、
 自分で「他人の賞賛を獲ち得られると信ずるもの」あるいは
 その瞬間に、自分の見解に照らして、自ら真実であり正直であと信ずるところのもの
 を、所与の文章に書いたり、考えたりするかどうかということである。

 確かにその若い夫は、今後五年に、妻との関係がどうなるかについて自信がなかった。
 しかし、そのたどってきた各年月の中でもっともよい時期には、
 彼がその一週間、一ヶ月をきっと生き抜いたのではあるまいか。


現代という時代の不安定さが、なによりも大事な教訓をわれわれに与えてはいないか。
―つまり究極の基準となるものは、連関のあるそれぞれの瞬間を、正直に、誠実に、
勇気と愛をもって生きるということである
もしそれがやれるなら、それに未来をかけることができる。

 自由、責任、勇気、愛、内面的誠実、といった資質は、理想的な資質であって、
これらは何人によっても、決して完全に実現されることはない。
しかしそれらは
人格の統合というわれわれの目標に向かうとき、
その生き方に意味を与えてくれる心理学的目標である。

ソクラテスが人生の理想的な生き方、および理想社会のことを語っていたとき、
グラウコン
(*プラトンの兄)
「ソクラテス、自分は地上のどこにも“神の都市”があるとは信じない」
といって反対した。
ソクラテスは次のように答えた。


そんな都市が天上にあろうと地上にあろうと、
 賢者はその都市の慣行にしたがって生き、ほかの慣行には何の関係もない。
 賢者はその慣行を調べたうえで、自分自身の家を整えてゆくだろう。











                                 *(終)

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last あとがき

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:25 am


  (*訳者_小野泰博による)  あとがき      



  本書はロロ・メイの Man's Seach for Himself(1953)の全訳である。
 もとの版はA5版サイズであったが、いまはぺーべーバックで版を重ねている。
 
  なにより本書の面白さは、一臨床心理学者が自らの臨床体験と豊かな知見をもとに、
 「人間の心」について、静かに謙虚に、しかも味わい深く語りかけてくる、その「語り」
 のよさにある。
 メイの前著「不安の人間学」(Meaning of anxiety 1950)は、彼の野心的業績であり、
 細かい脚注のほどこされたもので、いわばその臨床と理論の総合を試みたものであった。
 それに比すると三年後になった本書は、思うままに筆ののびた、当人の豊富な知識が
 いかんなく発揮された論述といえよう。

  とりわけ、われわれになじみ深いキルケゴール、サルトル、カフカ、などが、
 それぞれふんだんに顔を出し、いわゆる実存哲学に正面からは抵抗を感じる者にも、
 心理学書としての本書からたどるときは、却って観念の操作だけで異国の思想を理解しようと
 思う者にとって思いもうけない道の通じていることを知らせてくれる。
 ただ惜しむらくは訳者の力不足がどれだけ原著書の真意を伝えうるか忸怩たるものがある。


  著者メイは、コロンビア大学で学位をとったあと、ウイーンに学び、現に有名な
 ウイリアム・アランソレ・ホワイト研究所で、臨床心理の実地と研究にたずさわっている。
 すでにエール大学、コロンビア大学、ハーバート大学でも客員教授として講義を行っている。

 その学風は、オーソドックスの精神分析というより、むしろヨーロッパの実存分析の紹介を
 している点からも、より実存分析的といえよう。

  その後1967年には、彼のいままでの論稿が Psychology and the Human Dimmentionとして
 まとめられている。
 その中の「実存的療法とアメリカ的状況」という論文では、もともとプラグマティズムといい、
 行動主義というけれども、これは Knowing by doing ということでは、実存主義の考え方とは
 全く別ものとはいえない。W・ジェームスの直接経験の重視は、実存思考と無縁ではない。

 たしかにアメリカのフロンティア精神は「空間」を強調し、ヨーロッパ人は「時間」を重視した。
 つまり、人間が空間的に、水平移動するよりも、深く、垂直的に思考するのがヨーロッパ人で
 あると。

 しかも現在のアメリカ人はもはやフロンティアの世代からは遠ざかってしまった。
 そしてマルセルのことばでいうといままで ontological sence(存在論的感覚)を抑制してきたが、
 メイのいう“onntological humger”が始まっているという。
 そしてここ六、七年になって、ヨーロッパの実存分析的なものがようやくアメリカ人によって
 翻訳される傾向がでてきた。

  しかし、精神療法がどれか特定の哲学とあまり密着すべきでないというジルボーグの考えに
 メイも同意する。
 また、彼はそれにしても、アメリカの精神分析のとり入れ方は、あまりに機械的にすぎないか、と
 反省する。
 それは「無意識」の扱いにも如実にあらわれている。
 心因を幼児期体験にさかのぼるときのように、過度に機械的な因果関係によってとらえられている。
 無意識の概念によって「象徴され」ている体験はもっと広く、深いものである点を力説している。
 メイはここに、アメリカの精神分析がいま反省の時期を迎えたことと、しかもヨーロッパ的思考への
 接近をみている。

  なおメイは、1969年には『愛と意志』
(*誠信書房 (1972)\絶版)を書いている。
そこで、愛のない意志は操作であり、意志を欠いた愛はセンチメンタルであるという立場から、
 分裂気質的な現代の精神的状況について美事な分析を行い、新しい愛のあり方を模索している。

  こうしたたゆみない思索から生まれた一連の著述がこの Man's Search for Himself にあると
 いう意味でも、見逃しがたい論述であると思う。




                                 訳者



 
 

kusamura
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Re: 第3部_第8章 人間・時間の超越者(時間;永遠:死

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