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第3部_第6章Ⅱ「宗教」 依存性,服従,伝統,驚異,良心,価値

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第3部_第6章Ⅱ「宗教」 依存性,服従,伝統,驚異,良心,価値

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:41 am



         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (1)

  フロイドが、
  宗教はそれ自体、強迫神経症であると主張した時、
  彼の言い方は正しくない
   (*当時の強迫神経症の定義はとは異なる。 ここでは
                           
ある観念に取り憑かれた状態という程度に受け取って大過ないように思われる)
   
ある宗教は強迫神経症であろうが、しかしある宗教はそうではない。
人生のどの領域のことであろうが、強迫神経症として扱うことはできる。

たとえば、
哲学は、現実からしりぞいて、
日々の生活不安や不調和から身を守ってくれるものとしての「調和ある体系」への逃避でもありうる。
あるいは
哲学は、現実をよりよく理解しようとする努力の営みであるかもしれない



科学は、人がそれによって情動的不安や疑惑を逃れるための、
かたくなな、ドグマ的な信仰として用いられることもある。
あるいは
新しい真理に対する敬虔な探求かもしれない


実際、科学への信仰は、
現代社会の知的グループには、比較的広く受けいれられてきたし、
それゆえ問題にされることが少なかった。
この信仰が、宗教以上に、
不確かさ
(uncertainties)からの強迫的な逃避 という役割を演じているのも当然である。

しかしフロイドは、
宗教について正当な問いかけをしている点で、技術的にはまちがっていない。
しばしば彼はそういう言い方をするが、これは
宗教は、依存性を増大し、人間を幼児状態のままにしておくのか、
という彼流の問いかけなのである。


いっぽう、軽々しく、慰め顔に、
宗教は心的健康に役立つものである 
と大衆に言ってしまうのは正しくない。

そのようなおおまかな表現はすべて、
宗教的態度の持つ内的意味をたずねるという、はるかに困難な問題から
われわれを救ってくれる。
そして、人間の具体的な生にたいする
有機的な関係からでてくる機能的な面を見定める、という仕事を回避させてくれる。


われわれの問いはこうである。

   ここにある人間がいたとしよう。
 当人のもっている宗教が
 当人の意志をくじけさせ、彼を幼児的発展段階のままにしておき、
 自由と個人的責任を身に引き受ける不安を避けさせるのに 役立っているのか。  
 それとも、
 彼の宗教は、人間の威厳と価値を確認する意味の基本として、役立っているのか。
 つまり、
 人間に自己の限界や正常な不安を、受けいれる基盤を与え、
 さらに自己の力、責任能力、仲間を愛する能力の 発達 に役立っているのか。



この問題に答えるにあたって
考慮すべき第一の問題は、宗教と*「依存性」との関係である。

 *依存性:原注:
   私はこのことばを“病的依存性 morbid dependency”をあらわすものとして用いている。
   つまり発達のより幼児的段階にぴったりするもので、
   所与の人間の現在の状態に適合しない依存性をさす。
   たしかに、依存性は、まったく正常なものである。 
   1歳児が、母親にスプーンで食事させてもらうのは正常である。
   しかし8歳児が同じようにしてもらいたいとう欲求をもつのは正常ではない。
   ここで使っているような意味での依存性は、単に成長しそこねではない。
   それは不安回避をあらわすダイナミック・パターンである。
   ここで使っている意味での依存性の、よい同義語は
   「共棲関係(Symbiosis)」である。
   これは、ある生物体がほかにしがみつかないでは生存できない状態をさす。




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#2

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:42 am

         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (2)(*依存性)

 ある母親と娘がいた。

  その娘のまだ若いうちは、二人とも、
  娘の生命が神の意志によって導かれているということに
  意見が一致していた。

  さらに神の意志は、
  母親の祈りを通して娘に現れてくるはずだ 
  ということにも納得していた。


このことは、その少女のあらゆる行為や思考が
いかに完全に母親の支配にゆだねられているかを示している。
そのとき、少女自身の選択能力は、窒息させられてしまったのであろうか。

  そのことを彼女が苦しい体験を通して発見したのは、
  二十代の後半、彼女が解きがたいジレンマにとらえられたときである。


  というのは彼女は、自主的に結婚の決断ができなかったのである。



この例は極端な例かもしれない。
母親と娘は保守的な福音派に属し、その教義パターンは
合理化によってゆがめられていないからである。
この母親がそうしたように、
人が自分自身を、神の代弁者、あるいは神のパートナーと見るとき、
自分が他人以上に力をもっている、と自惚れる可能性は際限がない。


  こうした宗教の果たしている役割は、
しばしば治療中の人物が、親の支配から自由になろうともがいている最中に、
生き生きと現れてくる。

親たちは、こういう時、
親の指図にしたがうのは、幼少者の宗教的義務であり、
当人が親の支配下に留まっているのは、「神の意志」によるものである

ということをしばしば、巧みに議論の中心的なよりどころにする。

治療中の人物がそんなとき、両親から受け取る手紙には、応々にして
汝の父、汝の母を敬え」という聖書のことばが引用され、
新約聖書にあるイエスの後期の倫理、
人の敵は、彼自身の家族の者たちである」(マタイ伝10章34-39節)
はでてこない。



 たいていの親は、ことばの上では、
こどもに、こども自身の潜在力をのばさせてやりたいという。
しばしば親たちは、
子どもにしがみつきたいという自分のもっている無意識的な欲求にまったく気がついていない。
親があたかも
自分の息子や娘の自己実現は、ただ親の支配下にとどまっていることによってのみ達成されるはずだ
という風にふるまっている事実は、
親のもっている意識的な意図とはまったく別のなにかをあらわしている。


息子や娘が自由になることは、しばしば、
親の心になにか深い不安をかきたてる

その不安は次のことを示している。
すなわち
こども固有の潜在力を信ずることは
ほんとうのところ、現代社会の親たちにとっていかに難しいか、を示している。
(おそらくその理由は、親が親自身の潜在力を信ずることがきわめて難しいからだ)


さらにこの不安は、
どんなことをしても他者を服従させる力をもちたい
というかたくなな権力者すべてにみられる傾向のいかに強いものであるかも示している。



 自主性
(antonomy)を得ようとたたかっている年少者は、
もし親に従わないと、しばしば深い破滅感を教えこまれる


したがって、
その葛藤はいよいよ複雑化してくる。
そして彼は、自由になろうともがくことによって、
たいていの場合、内心ではかなりの不安や罪悪感と、すでにたたかっている。

しばしば、この段階で、人々は、
自分は有罪でしかも無実だ といった
―オレステスのような罪悪感、しかし、このまま前進しなければならない、という夢をみる。
このような状態の人が夢をみた。


 自分はほんとうに罪があるのだと、内心では知っているけれども
 上院で、上院議員
マッカーシー によって有罪として召喚される、という夢である。


だれか他人の餌食になってしまうという問題は、
世話をしてもらい、面倒をみてもらいたいという幼児的欲求によって強化される。  
そのように、
自分の自我を、支配的な人物にゆずり渡してしまいたいという、
内心の傾向が存在するのである。





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#3

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:43 am


         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (3)(*世話をしてもらう神聖権)



過去十年以上にわたる私自身の精神療法にたずさわった経験のうち、
その約半分は、
とくに宗教的背景をもった人、および宗教関係の専門家であり、
あと半分は、
とくになんらの宗教的背景をもたない人であった。


そこから私はいくつかの印象を得た。
この印象は仮説的なものではあるが、
現代社会内での宗教的訓練の与える心理学的影響を考える上で役立つと思う。

第一に、宗教的背景をもった人々は、
自分自身で、生涯をかけてなにかをやりたいという並々ならぬ「熱意」を持っているようである。

第二に、彼らは、
私はこれを「世話してもらう神聖権」
(divine right to taken care of)と呼んでいるが、
そうした特別の態度をとりがちである。

この二つの態度はもちろん矛盾している。

第一の態度は、自分の問題について何かやることに強い興味をもつ態度で、注釈を要しない。
それは人生の意味や価値にたいする確信の機能であって、
成熟宗教のもつ建設的な貢献である。
しかも一般に、治療に当たって、元気づけの力となる。

しかし「世話をしてもらう神聖権」という態度は、全く別ものである。
それは治療場面だけでなく、
人生上も、成熟へ向かう発展途上、最大の障害のひとつである。
こうした人にとっては、
世話をしてもらいたい欲求を分析され、克服さるべき問題としてみることは一般に難しい。

彼・彼女らは、自分の「権利」が尊重されないと、
敵意や、「だまされた」という感情を表に出す。
日曜学校で歌をうたった幼児期から、
同一観念が一般的に俗化した現在形にいたるまで、
彼・彼女らは「神があなたをみていて下さる」と教えられてきた。

しかし、より深いレベルでは、
面倒をみてもらいたいという欲求は、
とくにその欲求が阻止された時ただちに敵意が現れるところをみると、なにかもっと根の深い働きである。

私はその欲求は、
そのダイナミック(力働)は次の事実から得ていると思う。
このような人は非常に多くのものを断念しなければならなかった、という事実である。

彼・彼女たちは道徳的判断を下す力や権利を親にゆずらねばならなかった。
したがって、そこに明記されざる契約のあと半分は、
奴隷がその主人に依存する権利をもっているように、
彼・彼女たちも、
親の力や判断に全面的に依存する権利をもっている。という内容である。

そこでもし、親、ないし、治療家とか神のように、親に代わるべきものが
彼・彼女たちに特別目を掛けてやらないと、だまされていることになる。


 こどもは「いい子」
(being good)であるのが、幸福と成功の条件であると教えられ、
しかもいい子であることは、一般に、従順であることと説明される。
しかし、すでに述べたように、
単に従順であることは、
その人の倫理的認識力や、内なる力の発達を、徐々にそこねてゆく。

長期間、外部からの要求に従ってばかりいると、
人は倫理的に責任ある選択をおこなうことのできる現実的な力を失う。
それから(不思議に聞こえるかもしれないが)、こういう人は、
善とそれに伴うよろこびをかちとる力も低下させてしまう。

スピノザが述べているように、
幸福は善
(virtue)の報いではなくて、善そのものであって、
自らの倫理的自主性を棄ててしまう人は、
それに応じて、善や幸福を得る力も棄ててしまったことになる。
その人が憤慨するのも不思議ではない。





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#4

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:44 am


         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (4)(*宗教的服従と社会の変化)


 「服従道徳」「自我(*自己の意識)を服従させることによっていい子になる」こと
 を強調する傾向がいかに勢力を得ているかを考えてみると、
 われわれ(*現代人)が、ここで断念しなければならないことが何であるのかが
 より具体的にわかる。


それは(主として)、
過去四世紀の産業主義と資本主義の発展をモデルにしたパターンの現代版(*の断念で)ある。


(*われわれはこれまで)
機械的な順応パターンを身につけ、
自分の生活を、労働や極度の倹約の要求に合わせてゆくことが、
近代にあっては、金銭上の、したがって社会的な成功をほぼもたらしたのである。
服従こそ救いのもとである旨を、相手に納得させるよう主張できた。
というのは、
産業社会において課せられた労働の要件に
従順でさえあれば、
われわれは金を貯めることができた。

たとえば初期クェーカーやピューリタンの実務上の辣腕について読んだことのある人は、
ここでいう経済的態度と道徳的態度とが、いかにうまく共働きするかわかる。
「クェーカー・ドル」というのは、中産階級に生まれた大いなる怨恨にたいするなぐさめであった。
というのは、この服従体制において、彼らは自分を殺してしまうからである。
(*関係ないが新渡戸稲造もクエーカー教徒。リチャード・ニクソン(クエーカー教徒)がお札になることはなさそうなので、
 ドルをさしおいて日本が唯一クエーカー教徒を載せた札(D五千円券)の流通している国なのかもしれない)



しかし、すでに述べたように、時代は変わった。
今日では、「早寝、早起き」は人を健康にするかもしれないが、
それが人を金持ちにし、賢明にしてくれる保証は何もない。
ベン・フランクリンの教訓、
わずかづつの貯えと、きまった仕事への忠誠では、もはや成功は保証されない。


宗教的な人間は、
もし本人が聖職者ないしそのほかの宗教専門職に従事しているならなおさら
金銭的なものにたいして、現実主義的な態度を断念しなければならない。
こういう人が、しかじかのサラリーの支払いを要求するなどということは考えられない。
多くの宗教サークルでは、お金について話すことは「下品なこと」と考えられている。

マス産業の変動する経済時代に適合してゆく労働者集団は
自分たちの組合を通して、しかるべき賃金を得られるだけの圧力をかけることを学んできた。
しかし宗教的職業にある人々は、賃上げ要求のストをやることができない。

その代わり、
教会は、財務的に聖職者の「面倒をみるもの」
と考えられており、そのほか彼らには、鉄道やデパートの割引き制がおこなわれている。
神学校の月謝は、ほかの大学院課程よりもはるかに安い。
―こうしたことのすべては、アメリカの社会において、
聖職者の自尊心や、彼に対する人の敬意を高めるよう配慮されてはいない。


宗教的人間は、
自己の財政的な面での安全を確保するため、積極的な活動をするものとは考えられていない
というこの事実は、
現代社会で暗々裏にみとめられている次の仮定を証明する。
すなわち、
もし人が「善良」なら、物質的安全は、自動的にやってくるという仮定
これは、神があなたの面倒をみてくれる という信念と密接に結びついた仮定である。


このように、
自ら従順になることが、善良なのだと教えられたものが、
幸福はともあれ、そうすることでは経済的報酬さえ得られないことを発見して、
おおいに怨恨や、怒りを感じなければならないかは、容易に理解される。


世話してもらいたい、という要求の動力源になるのは、
この埋もれた怨恨である。
それはあたかも
「私が従順なら、私は面倒をみてもらえるよう約束されている」
「ごらんください。私はどれほど従順であるかを。それなのに、
 なぜ私は面倒をみてもらえないのか」
とその人物が沈黙のうちにそう語っているかのようである。

「世話される神聖権」を信ずる立場には、しばしば、
自分は他人に権力を行使できる権利をもっているのだという感情を伴う。

すなわち、もしある人間が、
人間はだれか他人の権力下にあるべきだと信じていれば、その人間は、
自分が世話してもらう目的で、自分より力のある相手に自分を服従させようとするだけでなく、
力の点で自分に劣る者の面倒を見、
その相手に権力を行使することを自分の「義務」と感じるようになる。


この傾向は、
次の例により、サディスティックな形で示されている。

 ある男が、
 もうひとり、齢下の男と共同生活をし、
 土曜日ごとに齢下の男の支払い小切手をうけとり、
 彼には(*そこから)手当を支給することまでやって、
 その齢下の男を支配していた。

 そこでそのことについて、その男にたずねてみたところ、
 彼は、「私は自分の弟の管理人じゃないでしょうか」と述べた。



支配的傾向と服従的傾向(dominating and subimssive tendeusy)は
相たづさえて出てくること、
それにマゾヒズムはつねにサディズムの裏側をなしているということに対して、
ここに理由を説明するまでもない。

エリッヒ・フロムは『自由からの逃走』の中で、これらの問題をすでに典型的な形で論じている。
世話されることを求めている人物は、一般に、
さまざまの微妙な方法で、同時に、他人を支配しようと努力していることだけ指摘しておきたい。
ゲーテは
この心理的真実を見事に表現している。


  …というのは 自分自身の内的自我を支配する力のないものは
  すべてみな 仕方なく隣人の意志を支配しようとする
  ちょうど 彼のごうまんな心がそこに働いているとき。






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#5

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:44 am


         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (5)(*宗教的依存と孤独)


宗教的依存性によって養われるもう一つの傾向は、
自分をほかのだれかと同一化することによって、
自分の価値感、威信感、力の感覚を得たい という傾向である。


これは一般に、
司祭、牧師、ラビ、主教、あるいは
階層上自分より上位にあって、威信と力をかねそなえた人物だれでも、
その理想化された人間像との同一化という形をとる。

宗教におけるこの傾向は、
社会生活のほかの領域よりもさらに深いレベルにもとづいているように思われる。

この傾向は
代理受難」や「贖罪」という
ゆがめられた説明によって強化されているのである。
それはあたかも、
自分自身がどこにいるのかもわからないまでに
だれか他人を通して代理的な生き方をしようとしているようなものである。


 宗教の神経症的用法には、一つの共通点がある。

それは、人が自己の孤独や不安に直面しなければならないとき、
それを回避するための手段として宗教が用いられるときである。

オーデンの詩句の中で、神は「宇宙の父」(cosmic papa)とされている。
この型の宗教は、次の実感をカバーする合理化である。
すなわち
人間はもともと、その根底の深いところでは、基本的に孤独なものであり、
自分の選択を究極的には、自分一人でやらねばならない、という事実から
逃れるすべは何もないという実感であって、
これをまじめにとりあげる人は非常な恐怖を味わねばならない。


もし、孤独と恐怖を逃れたい欲求が、神へ向かう主な動機であるとすれば、
それは長い目でみて、人に安心かを与えることにはならない。 
パウル・ティリッヒは、神学的な見地から、
絶望や不安は、
人がまごうかたなき現実の中で、それに立ち向かうまで、克服されることはない
と指摘している。
これは心理学的にいって正しい。

成熟すること、および
孤独の最終的な克服は、ただ
人間が、まず、勇敢に自己の孤独を受けいれるときだけ達成される。




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#6

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:45 am


         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (6)(*孤独)


   しばしば私の心に、次のような考えが去来する。

 フロイドが、その四十年にわたって、
勇気と不動の目標に導かれて、その仕事を続け得た理由は何であったのだろうか。


それは、ブロイエルと袂を分かって後、
仲間もなく、協力者もなく、孤独にたえて、精神分析に没頭した十年、
そこでただ一人で成長し、仕事をしなければならぬたたかいに、
彼が勝ったということである。

さらに私は思う。
これはキリストのごとき創造的な倫理的人物が、その荒野の中で超克したたたかいであり、
イエスが格闘した誘惑の真の意味は、
パンとか、権力への欲求ではなくて、
その物語の悪魔のことばにみられるよう
神が自分を守ってくれる」ことの証しをするため、
山から身を投げ落とそうとする誘惑の中にあるように思われる。
 
 彼(神)は 自分の天使たちに お前を託すだろう
 天使たちは その手でおまえを支えてくれよう
 おまえが石につまづくことのないように




 ある人が、
なにかに「支えられていたい」という欲求に対し、常に「否」を言い続けてきた場合、
かばってもらわなくてもいい、と断言できるとき、一人で立てる勇気のあるとき、
彼は権威ある者として語ることができる。

スピノザが自分の教会や社会からの破門をまぬがれようとしなかったことは、
人格の統合という同じ内的たたかいや、
孤独を恐れないだけの力を得るためのたたかいに
彼が勝利したことを意味する。

この勝利なくしては
あらゆる時代を通して最大の著作、高貴な『エチカ』は書かれなかったのではなかろうか。
ともあれ、スピノザは、
宗教へしがみつくような依存性というぼやけた、不健康な湿地を吹き抜けてゆく新鮮な、
すがすがしい一陣の風を思わせる叙述をしている。

神をほんとうに愛するものはだれかれを問わず、その代償として神に愛されることを期待してはならない

人の心を打ち砕いてしまうような文章の中で、
そのまま幸福であって、幸福に対する請求小切手ではないということを知っている人物、
勇敢な人物がここでは発言している。
すなわち、
神を愛することは、愛することそれ自身が、報酬である。

美と真理は、それが善であるゆえに愛されるのであって、
それを愛する芸術家、科学者あるいは哲学者の信用を高めるからではない。

スピノザの言おうとしているのは、
殉教者的、犠牲的、マゾヒズム的態度のことではない。

むしろ彼がそのもっとも明確な形で述べているのは、
客観的で、成熟した創造的人物(彼のことばだと、“恵まれた、よろこびあふれた人物”)の
それ自体のために何かを愛する能力のことであり、
それは、世話されるため、あるいは
威信と権力というよこしまな感情を得るためのものではない。



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#7

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:45 am


         宗教-それは力の根源かそれとも柔弱のみなもとか- (7)  (*last)


  確かに、孤独と不安に対し、われわれは建設的に対処できる。 

それは「宇宙的な父」という機械仕掛けの神(deus ex machine) 
によっては達成されないが、
自己意識の発達途上で遭遇するさまざまの危険に、ぶちあたることによって、また
自分の能力を発展させ、利用しつつ、依存からのより大きな自由、より高度な統合に向かうことによって、
さらに創造的な仕事や愛を通じて、周囲の人と関わりあうことによって、
達成される。


これは
宗教とか何かほかの領域において、
権威といったようなものが何もない、といっているのではない。


権威の問題は、
まず第一に個人的責任の問題として扱われるべきものと思う。
権威主義(権威の神経症的形体)は、
当人が自己のかかえている問題に対決するという責任を回避しようとする
その度合いに応じて、直接に出てくる。

たとえば治療において、
患者が、治療家というひとつの権威をつくりだすのは、
その患者がある特殊な、あるいは圧倒的な不安を感じるときである。

こうした場合に、その患者が治療者を、神とか親と同一視しようとするのは、
彼が自分の面倒を見てもらうため、
自分自身をゆだねることのできる相手を求めているのである。

幸いに、
治療者が神ではないということを示すのは、難しいことではない。
―そして、患者がこの事実を発見し、しかも恐れなくなったとき、
その患者の治療にとってそれは、よろこぶべき日である。


さまざまな権威の長所について、自問したり、他人と議論する代わりに、

 はたしてどのような不安が自分を権威下に走らせるのか
 自分が逃れようとしているのは、自分自身が抱えているどの問題なのか、

という問いをひっさげて、自己を吟味し、
進んで自らの自己認識に直面することが、よりよいことなのである。


 ここで論じていることの要点は
宗教は次のような意味で建設的だということである。
 すなわち
宗教は、自己の尊厳とか自己の価値を意識することによって当人を力づけ、
自分は人生における価値を確認出来るのだという信念を与え、
自分自身の倫理的問題、自由、個人的責任を活用し、
発展させるのに役立つからである。


宗教的信仰や祈りのような実践は、
それ自体で「よい」の「わるい」のと判断をくだせない。

問題はむしろ、
その信仰や実践が当人にとって、
それがどれほど彼の自由からの逃避であり、
人格としての「萎縮」の道になっているのか、
それとも、
それがどれくらい、
彼自身の責任や倫理的な力の行使をはかる点で、
彼を力づける方法であるのかという問いである。


マタイ伝にあるイエスのたとえ話の中で、
ほめられている人物は、
おそれおののいて、じこの才能を「埋もれさせてしまう」人物ではなくて
勇気をもって、自己の才能を活用する人物である。

しかもこうした、
「善良で忠実な」人物にはより以上の力が与えられている。






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#8

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:46 am


         過去の創造的活用 (1)(*古典)


   古典の本質は次の点にある。 


古典は人間経験の非常な深みから生じるものであって、
イザヤ書、エディプス、あるいは老子のいう“道”のように、
古典は何世紀も後の大いに異なった文化に住んでいるわれわれに、
われわれ自身の体験の声として、語りかけ、
われわれ自身をよりよく理解させ、
その所在を知らなかったかもしれないわれわれ自身内の共鳴を解放することによって、
われわれを豊かにする。


われわれが、自分自身の経験の中へより深くはいってゆけばゆくほど、
(たとえば死に直面するとか、愛情経験などの)われわれわの経験は、
時代を異にし、文化を隔てたほかの人々と類似の共通経験をもつことが、ますます多い。


これはソホクレスのドラマやプラトンの対話、
それに二万年前の作者不明のクロマニヨン人による南フランスの洞窟壁画のトナカイや野牛が、
五年まえの大方の著述ないし絵画よりも、はるかに力強くわれわれに迫り、
より大きな反応をよび起こしうる理由でもある。


 ところで、
自分自身の経験を、より深く掘りさげればさげるほど、
その人の反応はそれだけいっそう独創性を帯びるようになる。
ここには、見かけ上のパラドックスがある。
すなわち、
(以下原文傍点)
人が歴史的伝統の中に累積された富に対決し、経験することが深ければ深いほど、
それだけいっそう、ユニークな自分自身を知り、個性ある自己を確立できるということである。


それゆえ、たたかいは
個人的自由と伝統そのものとの間ではない。
われわれが伝統をいかに生かすかということである。

伝統(*主義者)は私に何を要求しているのか。
それが十戒山上の垂訓のごとき倫理的伝統であれ、
あるいは印象主義のような芸術上の伝統であれ、彼は
伝統を権威主義的に利用しているのである。
伝統は
その人自身のバイタリティや創造的洞察を抑制するだけでなく、
選択という責任を回避するために好都合な手段になってしまう。


しかしもし、次のように自問するならば、

 伝統は、私固有のこの生涯に、しかも問題を抱えたこの私に、
 人間生活について何を教えるべきか。

そのときわれわれは自由な人間として
自分自身を豊かにし、導くため、
歴史的伝統を通して累積された智慧の富 を活用しうるのである。



われわれは、宗教を、
人生には意味があるのだという仮定に立つこと

と定義したい。
当人が自分にとって究極的関心であるものは何であれ宗教といえる。


われわれの宗教的態度というものは、
その人が人間存在にかかわる価値のなかで、生きるに値し、
そのために死すに値すると確信できるとき
見いだされるものである。

われわれはここで、
すべての宗教的伝統ないし態度が一様に、建設的である
といっているのではない。
それは破壊的な働きすらもっている。
ナチの宗教的熱狂や、中世の宗教裁判にその例を見いだすことができる。

強調したい点は、心理学的にいって、
われわれは宗教をわれわれの実存にかかわる関わり方として
理解すべきだということである。



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#9

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:47 am


         過去の創造的活用 (2)(*驚異について)


   倫理的、宗教的伝統にこめられた人類の知恵に、創造的にかかわり合うことができるようになると
  その人は、驚きの感情を抱きうることをあらためて発見する。  


驚異はいろんな形で述べられている。
カントは、「二つのものが私の心をおどろかせる。内なる道徳律と天井の星である」と述べ、
アリストテレスは、われわれが劇的な悲劇を見るとき、魂を清めるのは、
憐憫や恐怖感の一面としてのおどろきである、と述べている。

たしかにそれは宗教にかぎったことではないが、
驚異は伝統的に宗教に結びついている。
科学者や芸術家にしばしばみられる驚異を、
私はこうしたほかの職業がもつ宗教的側面と考えたい。

宗教的真理でも科学的真理でも、
それをあまりにもかたくなな見方でみる人は、いよいよドグマ的になり、
素朴な驚きの感情を失ってしまう。

 
 驚異の重要さは、
イエスがとりわけこどもの態度に関心をはらっていることの
基本をなしている。
「汝おさな児のごとくならずんば、天国に入るを得ず」、
このことばは幼児っぽさ
(chilidishness)、幼児性(ifnantalism)とは何の関係もない。
それは幼な子のあのみずみずしいおどろきのことを指しているのであって、
また、それはもっとも成熟した、そして創造的な成人の中にもみられる驚異能力である。


驚異は、皮肉や退屈とは正反対のものである

驚異は生命の高揚、旺盛な好奇心、期待感、敏感さを示している。
それは、
本質的には“開かれた”態度であり、
いままで探り得た以上のものが、人生にはあるという認識であり
さらに掘りさげるべき生の深みや、探求さるべき新しい展望に立つことである。


それは把握しやすい態度ではない。
クルーチは述べている。

「驚異の能力は容易に疲れ切ってしまう。…
 人間は生まれつき、“おお、いや高きものよ”と感嘆するよりも、
 むしろ「それがどうしたんだ」と開きなおる動物であるが、
 こうした感動のほうが強ければ、人生というものは、
 見かけ以上にもっと充実しているように思われる。」


驚異感は、われわれが
人生における究極的な意味および価値と考えているもののもつ一つの働きである。

「人間の達しうる最高のものは、驚異である。」とゲーテは述べている。
「もし、最初の現象が彼を驚かせるなら、それで満足すべきである。
 それが彼に与えられる最高のものだからである……。」


驚きの感情にはへりくだりの心が伴う。――それは服従というにせものの謙虚さではない。

謙虚さは、一般に尊大さと正反対のものであって、
創造的努力によって、ほかに与えうるとともに、
「与えられたもの」を素直に受けいれることのできる
おおらかな心をもった人の謙虚さである。


優美(grace)ということばは、歴史的にみると豊かな意味をもっている。
鳥の優美な飛翔(graceful filght)、こどもの動作の優美、
おおらかな人のやさしさ(graciousness)など。
優美は、「授けられた」なにかであり、出現してくる調和であって、
いつも、おどろきへ心を開かせるのである。


おどろき、謙虚、優美など用語を使うとき、
そのことばの内包は、(いくつかの伝統的態度でみられるような)
受け身でなにかに従って行動する人間 の意味ではない。

「夢中になっている人」、それが芸術家であれ、作家であれ、音楽家であれ、
彼らの生活からわかることは、創造的経験には、
自分自身の側に多いに高揚した意識、および
きわめてはげしい活動状態がみられるということである。


感じやすいということ
(responsiveness)は、生気に溢れていることである。
クライスラーの音楽も、
酔っぱらい、あるいは自惚れつよく自らをそこから閉めだしている人、
あるいは別の方法で萎縮してしまっている人には何の意味ももたない。


経験の優美さ、あるいはその経験の質は、
どの程度まで当人がそれに参加するのかということに直接関係がある。
治療中のある患者は、そのことを簡潔に表現している。
「神の優美さは、変化してゆけるということである」と。




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#10

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:47 am


         過去の創造的活用 (3)(*良心)


   ここで伝統の創造的活用として推している接近方法は
  「良心」に対する新しい態度をつくりあげてゆく。  


だれもが知っているように、良心は一般に、
伝統が自己内で語りかけてくる否定の声
として考えられている。

―たとえば聖書にあるモーゼの「汝なすなかれ」の声、何世紀も、その社会がその構成員に
 教えてきた禁止の声である――

その場合、良心は人の活動をしめつける働きをしている。


良心はいろんなことを「するな」と告げるもの、と考える傾向は非常に強く、
それはほとんど自動的に働いているように思われるほどである。

 私が大学のクラスで学生とこの問題を議論していたとき、
 一人の学生が、自分の良心を積極的に用いてゆくことはまったく可能である
 と進んで申し出た。
 そして私が同意し、たずねたとき、たとえば彼はこのように申し出た。
 「あなたが教室へ行きたくないとき、
  あなたの良心があなたに行くなと告げているのです」と。
 私は、実際これが否定的な文である旨を指摘した。

 それから彼は、考えこんで第二の例をあげた。 
 「あなたが教室に行きたくないとき、
  あなたの良心があなたを行かせるのです」と。
 当初、彼はこの例もまた否定的であることに気がつかなかった。
 
 いずれのケースでも、良心は、
 本人がやりたいことと思っていることに反する行為とみられた。


良心はきびしい主人であり、むちである。
重要な点であるが、、
彼のあげた例で、全然触れられていないことは、
教室の中で一番価値のあるものを得させるガイドとしての良心とか、
研究や学習計画上のもっとも深い目的とか目標としての良心についてである。


良心は自己を制約し、自己のヴァイタリティや衝動を窒息させるような、
受け継いできた一組の禁止命令ではない。
人は全ての行動を勝手に決定できる、といった自由主義的な時代にみられたように
良心を伝統から離れたものとも考えられない。


むしろ、良心とは、
自分自身のより深いレベルの洞察、倫理感覚、および認識に達しうる能力
である。

そのレベルでは、
伝統と直接の経験 が相互に対立するのではなく、
相互に関連しあっているのである。

良心(* conscience)ということばの語源はこのことをあきらかにしてくれる。
「知ること」(scir)と「共に」(cum)
というふたつのラテン語からなっている。
良心ということばは意識(consciousness)ということばにきわめて近いのである。
ブラジルのようないくつかの国では、
事実同じことば“consiencia”が「良心」と「意識」の両方の意味に用いられている。
(*ブラジルはポルトガル語)


E・フロムが良心を「自己自身の想起」として語るとき、
その、自己を想起するというのは、歴史的伝統そのものに反対するというのではなく、
ただ、伝統というものの権威主義的な用い方に反対なのである。
そこには、
個人が伝統に参加するレベルがあり、
そのレベルにおける伝統は、当人が自分自身のもっとも意味ある体験を見いだそうとするとき
役立つからである。



われわれは、良心のもつ積極面を強調したい。
ひとつは、その人自身の内なる知恵や洞察を呼びおこす方法としての良心であり、
開発
(opening up)“の働きとしての良心であり、
拡大された経験への導き手としての良心である。

これは、
ニーチェが「善悪の彼岸」というテーマで、
彼のその勝利の歌の中で言及しているものである。*
さらにティリッヒが超道徳的良心
(transmoral conscience)**
という概念の中で述べようとしているものでもある。


こうみてくると、良心はわれわれすべてのものを臆病にするという言い方は
もはや真実とはいえない。むしろ勇気の根源である。



*(『善悪の彼岸』のどの箇所を指すのか不明だが第四章「箴言と間奏曲」の中に
 “良心を飼い慣らすと、それはわれわれを噛むと同時に接吻する”というのがある)
**(P.ティリッヒ:超道徳的良心
  『ティリッヒは、律法の掟ではなく、
   キリストの十字架の恵みによって罪が赦される出来事を、
   道徳的良心から超道徳的良心への転換として理解する。』
   <キリスト教社会福祉の神学試論>中澤實郎PDF文書p14《5. P. ティリッヒの「超道徳的良心の理念」》より)

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#11

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:48 am


         人間の価値づけ能力 (1)


   現代人は、いずれの価値にせよ、ある価値を確認し、
   それを信じうる力をおおはばに失ってしまった。   



それらの価値の内容がいかに重要であるとか、
この価値ないしあの価値が理論上は適当である、
とかいったことが問題ではなく、
むしろ個々人にとって必要なものは、
前提となる能力、すなわち価値づけをおこない得る力である。


ヒットラーのファシズムのごとき運動においてバーバリズム(野蛮性)を克服できなかったのは、
われわれが規範をとり違えたのかもしれないが、
人々が現代社会の倫理的伝統を忘れてしまったからである。

自由のもつ人道主義的な側面、最大多数の幸福、
共同体についてのヘブライ・キリスト教的価値、異邦人への愛、
などはなおテキストの中にあり、日曜学校で教えられ、
それを発掘するのになんら考古学的な探求など必要としなかった。

むしろ現代人は、
自分自身にとってのほんものの、
有力な物としての価値や目標を確認し、体験できる
内なる能力を失ってしまったのである。



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#12

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:48 am


         人間の価値づけ能力 (2)



価値の中心を見いだそうとすることについては、
たとえば、新しい上着を買う場合を考えてみよう。


 自分の外側にある価値を発見しようとすると、
 一般に、その集団が自分に何を期待しているかという問題に立ち入ることになる。
 上着を買う場合と同じで、いろんな価値の中から、
 このごろのスタイルは何かという問がでてくる。

これは、
(*外側からの価値づけ、期待・流行_スタイルは)
現代社会が空ろになってきている状況で、その眼目になるものである。
 
「価値について論ずる」といった表現には、どこか間違ったものすら含まれている。
価値をめぐって知的論議をやったからといって、
それで価値についての確信がもてるようには決してならない。


その人の生活において、当人が価値づけをおこなっているもの、
―こどもとか、こどもへの愛、こどもの自分に対する愛、
  劇を鑑賞し、音楽を聞き、ゴルフをやって得るよろこびにせよ、
  仕事の中に見いだす誇りにせよ、

これらすべてを彼は事実として受けとる。

こどもを愛することや、
音楽によるよろこびといった価値を理論的に論じても
それはばかげたことではないにしても、無関係なものと彼はみるだろう。

彼は、「それを実際に“体験しているから”、自分はこどもの愛を価値づけるのだ
というであろう。さらに彼は
もしあなたがそれを自分自身で経験しないなら、私はそれをあなたに説明することはできない」ともいうだろう。


実際生活において、ほんとうの価値は、
われわれの行動の現実と結びついたものとして経験されるものであって、
そこでは、どんなことばの上の論議も全く二次的なものになってしまう。



われわれは価値の明確化のために、
哲学・宗教と並んで、人間に関する諸科学が果たす役割を過小評価するつもりはない。
実際、いかなる価値によって現代人は生きえるのか
という重要な問題の解決にあたっては、
それら全ての学問の結び合わさった貢献が必要だと思う。

しかし強調したいのは、
当人が自身で、その価値を確認できないなら、すなわち、
自分自身の内的動機、倫理的動機が出発点になっていないなら、
価値についていくら議論しても、なんの意味ももたないということである。


倫理的判断や、倫理的な決断は、
当人自身の価値づけ
(evaluate)能力を根拠とするものでなければならない

というのは、あきらかにこれが
自分の行為にたいして責任をとりうる、
あるいは責任をとると思われる唯一の方法だからである。
そしてこれは、
自分の行為から、次はいかに立派にふるまうかを学びとる唯一の方法でもある。

われわれが、機械的にしゃくし定規に、行動するとき、われわれは
全ての状況がそれぞれ個別であるそのニュアンス、新しい可能性、独自のあり方に
目をつぶってしまうことになる。

自分の行動に確信を抱き、力を感ずるのは
ただ彼・彼女が行動を選択し、はっきりその目標を確認するときだけである。
というのは、それだけ自分が、実際に自分のやっていることを信じているからである。


人間こそ、まさに「価値づけをおこなうもの」(valuator)と呼ばれるべきである。
ニーチェは「ツァラトゥストラ」で述べている。

「何人も最初に、価値づけの働きなしに、生きてはいけない。 
 もし自らの主体性を維持したいなら、隣人と同じ価値づけを行ってはならない。」

「価値づけを行うことは、そのまま創造のいとなみである。
 価値づけの機能こそ、それ自体、
 価値づけされたものにとって珠玉の輝きをもたらすものである。
 
 価値づけをとおしてのみ、価値が生まれる。
 価値づけることなくしては、存在の核はうつろになってしまう。
  よく聞け、汝ら創造する者たちよ。」*


(*同じ箇所の手塚富雄_訳
  「どんな民族も、まず評価ということを行わなければ生存することはできないだろう。
   そして、その民族が自己の存続を望むのなら、隣の民族が評価するとおりの評価をすることは許されない。」
  「評価は創造である。
   評価そのものが、評価を受けるいっさいの事物の要(かなめ)であり、
   精髄である。   
   評価することによって、はじめて価値が生まれる。
   評価されることがなければ、生存の胡桃(くるみ)はうつろであろう。
    このことを耳にとどめよ、君たち、創造する者よ。」
               。(世界の名著『ニーチェ』[ツァラトゥストラ]<千の目標と一つの目標>p120-121)

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#13

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:49 am


         人間の価値づけ能力 (3)


    いかにして、人間は倫理的選択をおこなうのか。



たとえば、
約束の講演旅行のため乗船しようとしたとき、ピケライン
(*スト破り防止のための監視線)
にぶつかったとしよう。
ストライキの正邪の判断は簡単ではない。彼はそのピケラインを突破するだろうか。

 彼は、ストライキの正当性を決定し、
 あるいはこの旅行の自分にとっての必要性を考慮し、
 別の輸送手段をとるなり、いろいろ方法手段を考えて努力するかもしれない。

 しかし、乗船するかしないかの決定段階になると、
 全身全霊をあげて、
自己の決断という危険をおかすことになる。
 このような行為は水へとび込むのに似て、
 自我(*自己主体)全体をあげて行うか、行わないかのいずれかである


確かにこれは、やや観念的な言い方だと思う。
多くの人は
ただ習慣によって動く傾向にある。
―「私は断じてピケラインを越えない」とか
―「ストライキをやるような奴はくたばってしまえ」
とかいう。
そしてあれこれ合理化をはかって、責任を回避しようとする。


しかし、その人間がいかなる行為をおこなうにあたっても、
その人間的能力を十分発揮できるかぎり、すなわち
はっきり意識して選択できるときだけ、
彼は相対的な統一体(relative unity)として決断を下せるのである。

この統一体の要素となるものは、
単に人格の統合(*矛盾・葛藤が昇華された意識)から生じるのではない。


それが、はっきり意識して選ばれた行為、いわば自我を「その線上」にすえた行為であり、
その行為には、
それに身をゆだねる行為、それに程度の差はあれ「飛躍」がふくまれていること、
そこから統一体は生じる。

それは次のように言うことと同じである。
 私の知恵が増えれば、また別の選び方をするかもしれないが、
「この瞬間に、私の知恵の及ぶかぎりにおいて、私の選んだのがこの方法である」。




人間の選択行為はそれ自体、
その状況にあたらしい要素を投げかける。

たとえほんの僅かでもその形態は変化する。


 だれでも知ってるように、
さまざまな「無意識」の力が、いろいろな方法で、人間に働きかけてくる。
しかし、しばしば見落とされているのは、
たとえ意識的な決断が、健全に、しかも慎重に、あるいは大胆になされたとしても、
それは無意識的な力によって支配される方向を 変えることができる、
ということである。

このことは、治療過程における夢の中にもっともみごとに例証される。
たとえば、
数ヶ月にわたって、独立で仕事を見つけるという決定を下しあぐねてる、といった夢である。

 この幾月ものあいだ、彼の夢は、大体においてその論点の賛否両方に等しく、揺れ動いていた。
 ある夢は彼に家に止まるよう警告を発し、
 別の夢は出かけたほうが良いと告げている。

 結局、彼は出てゆく決心をする。
 
 そして彼の夢は突然に、あたかも意識的決定が、
 ある「無意識」力を解放するかのごとく、
 はげしく積極面に移ってゆく。


われわれの中には、健全になりうる 潜在力 があるようである。

しかしこれは、意識的決断を下すまでは解放されない潜在力である。




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#14

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:50 am


         人間の価値づけ能力 (4)


    倫理的行為は、それを行う人物自身がそれを選択し、確認した行為でなければならない。



そして、その行為は、彼の内面の動機、態度の表明でなければならない。
その行為は覚醒思考だけでなく、夢の中でも確認されているという点で
いつわりのない、本ものである。

倫理的人間は、無意識的レベルでだれかを憎むとき、
意識のレベルではあたかも愛しているかのようにふるまうことはない。

たしかにいかなる誠実さ(integrity)も完全ではない。
すべての人間行為はある両面価値をもっている。
どんな動機も完全に純粋ではない。

倫理的行為は、
完全に統一された人間としてふるまうべきだ,といっているのではない。
あるいは、われわれはけっしてそうように行為しようとは思わない。
われわれは常に、もがき、疑惑や葛藤を、もつだろう。

それは次のことを意味する。
 すなわち、
 われわれはできるかぎり、
 自分自身の「中心」からはずれることなく行動しようと努力してきた。
 しかもわれわれは、
 自分の動機が完全に明瞭ではない、という事実を認め、
 それを意識し、将来、自分が学ぶにつれて、
 それらの動機をよりあきらかにする  という責任をとる。  


 倫理的行為における内的動機をこのように強調する点で、
現代の精神療法が発見したものと、イエスの倫理的教訓とは
きわめてあざやかな類似点をもっている。

 イエスの倫理の本質をなすものは、
 十戒という
“外側から”のおきてであったものが、
 内なる動機へと、その強調点が転換したことである。


 「人生の諸問題が 精神の内奥から出てくる。」
 人生の倫理的問題は、単に「汝、殺すなかれ」ではない
 とイエスはいう。

それは、
他人に対する内なる態度である
―怒り、怨恨、心の中の爆発的「欲望」「あざけり」「嫉妬」などの感情である。
その外的行為が内的動機と合致している人の(*分裂のない)完全性(wholeness)は
福音書の聖句にみえる「心情の清らかさ」という表現の示しているものである。


ある人々はこのような内奥の倫理における自由を思い、戦慄を覚えるであろう。
各自の決断にゆだねられた責任を考えて、不安を覚えることであろう。
彼らは、
宗教裁判所判事が課したような「ルール」や、
絶対的なもの、「厳格な古代法」をあこがれるかもしれない。
それらは、「この恐ろしい自由選択の重荷」から、われわれを解放してくれるからである。

彼らはルールを待望しながら、次のような反抗をおこなう。
内なる動機や個人的動機といったあなたの倫理は、無政府状態へ導くものである。
 それでは各人おのれの望むままに行動できるではないか
。」

しかし、なんといおうと自由を回避することはできない。
というのは、
ある人にとって「正直」かつ「誠実」な行為とされるものは、
別人にとって真実な行為と、
まったくかけ離れたものではないからである。





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#15-ラスト

投稿 by kusamura on Sat May 23, 2015 5:50 am


         人間の価値づけ能力 (5)終


    ティリッヒ博士は述べている。
   「宇宙を構成している原理は、人間の中に探し求められねばならない」


その逆もまた真である。
人間経験の中にみいだされるものは、ある程度、宇宙において真実なものの反映である。



これは芸術においてはっきりみられる。
絵はそれが率直なものでないと、決して美しくない。

それが率直なものである程度に応じて、すなわち
その芸術家の、直接の、深い独創的な知覚や経験 が表現されている度合いに応じて、
その絵は少なくとも美の端緒をしめすことになる。

 こどもたちの作品を考えてみる場合、
彼らが素朴で、率直な感情の表現をしているかぎり、
それはほとんどいつでも美しい理由がここにある。

その人が自由な、自発的な人として描く線は、いずれもその中に、
優美さとリズムの萌芽をみることになる。


宇宙の原則である調和、バランス、リズムは、原子の動きにも、星の動きにもみられるが、
これは自己意識のほかの側面とならんで、リズムの調和、
身体のバランスの中にも等しく現れている。


しかし、こどもがおとなに認めてもらうため、模写し、絵を描き始め、
あるいはルールに従って描き始める瞬間に、
その線はかたくなり、窮屈さを帯び、優美さが消えてしまう。




 宗教史上、「内なる光」の伝統に真理が見られるのは、
われわれがつねに、自分自身から出発 しなければならない点である。

マイスター・エックハルトは述べている。
自分自身を知らないものは、だれも神を知らない。
 いわば魂のいと高きものへの飛躍を知らない


この真実をソクラテスにこと寄せてキルケゴールは書いている。
ソクラテスの見方からすると、
 各人が自分自身の行動一切の中心であって、
 全世界が彼に集中する。
 というのは
 自己認識は、神についての認識だからである。




倫理とか、よき生活について語るとなると、これで尽きるものではない。
しかし、
たしかにここから出発しないと、あてのない根無し草になってしまうのである。





 


                           


                             第6章了

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Re: 第3部_第6章Ⅱ「宗教」 依存性,服従,伝統,驚異,良心,価値

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