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第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び

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第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び Empty 第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び

投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:19 am



第三章 人間形成  


自己の認識というこの大いなる冒険” に旅立つにあたって、
また、このような冒険のもたらす
内なる力の充実感、安全感の源を発見しようとする
に際し、
まず、はじめに次のような問いを提起したい。

 ”われわれのたずねようとするこの人間、この自己感とはいったい何か


数年前、一人の心理学者が、
自分の幼児と同年のチンパンジーの赤ちゃんを得た。
心理学者は、
チンパンジーの赤ちゃんと人間の赤ちゃんを
家庭内で一緒に育てることにした。


最初の数ヶ月間、
両者はほとんど同じ速度で成長し、一緒に遊びもし、
ほんのわずかの差異を示すだけだった。

ところが十二か月そこそこ経ったころ、
人間側の赤ちゃんの方にある変化が始まった。
それ以後、両者間の発達上の相違は大きく隔たっていった。

これはわれわれが期待したとおりである。

人間と哺乳動物の赤ちゃんを
母親の子宮内にある胎児
という原初的統一状態のときから、心臓の鼓動が始まり、
誕生のとき、子宮から赤ん坊として排出され、
一人で呼吸をはじめ、
何か月かにわたる最初の保護期間
を通してみてゆくとき、
そこには、ほとんど差異が見いだされない。

2才そこそこになると、
現在までの進化の過程において、もっとも根本的で、
重要な現象である、自己自身についての意識が発生
する。
幼児は、「自己」として自分自身を認識しはじめる。

「子宮内の胎児としての幼児は、
その母との「原初的われわれ関係
(original we)の一部を構成していた。
これは、幼児初期の心理学的われわれ関係の一部として存続する。
しかし、いまや、
幼児は生まれてはじめて 自己の自由 を認識することになる。

グレゴリー・ベイトソンが述べているように、
幼児は
父および母に対する関係というコンテキストの中で 自己の自由を認識する。


幼児は、両親から分離し、
もし必要なら両親に対立できる同一の自分
(identity)
として、自己自身を経験する。


この目覚ましい現象こそ、
動物としての人間が、
いわゆる 人間としての人間 へ誕生することでもある。





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第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び Empty #2

投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:19 am


       自己意識―人間の独自性 (1)
 

  自己意識、
  あたかも外側からのように、自己自身を客観視できるこの能力

  こそ人間を人間たらしめている特性である。



私の友人は一匹の犬をもっている
その犬は毎朝、彼の仕事場の入り口に待っていて、
だれでもそのドアのところへ来ると、
とびあがり、吠えたてて、遊んでもらいたがる。

私の友人は、それを
犬が吠えながら次のように語りかけているのだと解釈する。すなわち
「毎朝、自分の相手をしてくれる人がだれか来ないものかと、
 いままで待っていた犬がいます
」「あなたは、相手して下さいますか
と。
これは、すばらしい感傷だ。
犬好きなわれわれならだれでも、
このような楽しい思いを頭の中に描いてよろこぶ



しかし実際には、こんなことを、犬は言えるはずがない。
犬は、遊んでもらいたい気持ち、
ボール投げに相手を引き入れたい素振りを伝えることはできる。 
しかし犬は、自分の外に立って、
こうしたことを行なう犬としての自分を 客観視することはできない。

犬には自己を(*特別な自己として)意識することはできない。

人間は、
神経症的不安や罪悪感とかある意味で余計なものに苦しめられる。
犬はまた、これからも自由であるということから、ある人たちは、
犬は人間のように自己を意識すべく呪われていない という言い方をするかもしれない。
ウォールト・ホイットマンも、この考えから動物たちをうらやましがっている。
  私は、動物にかえって、動物を暮らせたらと思う
  彼らは、自己の境遇についてあくせくしたり、またぐちをこぼしたりしない
  彼らは 眠られない夜を迎えたり
  自己の罪に涙することもない




しかし、現実には、自己意識は、もっとも高級な人間性の源である。
これは「自己」と外界を区別できるもと でもある。


これあるがゆえに、人間は時間を守ることができる。
それは、現在という時点の外に立って、
昨日の自分をふりかえってみるなり
明後日の先に自分をすえて考えることのできる能力
をさしている。

このように、
人は自己の外にあって自己の歴史をふりかえることができるので、
歴史的哺乳動物といえる。
したがってまた、
人は人間としての自分自身の発達を左右できるだけではなく、
微力といえども、自己の属する国家や社会全体の歴史的発展に影響することもできる。



自己意識の能力はまた、
人間のシンボル使用能力の基礎でもある。
シンボルを使えるということは、
たとえば「テーブル」ということばのように、
その全体からある部分を離す方法であるとともに、
この両者が同種類のもの全体の代わりをするものであることを認める方法でもある。


かくて人間は「美」「理性」「善」のごとき抽象概念でものを考えることができる






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第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び Empty #3

投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:20 am



       自己意識-人間の独自性 (2)


自己を意識できることは、
同時に
 
他者の目で自己をみつめ、
他人に共感
(empathy)できることでもある



自己意識がもとになって、
自分が来週そこにいることになるだれか他人の居間に、いま自分を(*イメージとして)移し置く
という注目すべき能力がでてくる。

それだけでなく、
イメージを思い浮かべることによって、
将来における自己のあり方を考えたり、計画したりすることもできる。

しかもこの能力によって、
だれか他人の立場にある自己を想像することもでき、
自分がもし彼の立場だったら、いかに感じ、何をするかを
尋ねることもできる。

これらの能力は、
隣人を愛し、倫理的感受性をもち、真実を見、
美を創造し、理想に献身し、もし必要なら、それら理想のためあえて死をもかえりみないだけの力

を生みだすことのできる基本である。


しかしこれらの資質は、
不安と内なる危機 という高い代償をはらってのみ
得られるものである。


自己の誕生は、決して簡単で、容易な事柄ではない。

というのは、
子どもは今や、解放されて独力で立ち、孤立状態におかれるというおそろしい予想に直面する。

もはや、何でも両親が決定してくれるという完全な保護状態にはいない。
自分自身の力で、自己の同一性を感じ、
自己の回りの大きくて強い大人と較べて
おそろしいまでの無力感を覚えるのも不思議ではない。


母親への依存状態から脱しようとたたかっている最中、
ある人は、自己の心境をうまく表現している次のような夢をみた。

  私は大きな船に結わえつけられている小舟の中にいた。
  わたしたちは大きな海の上にいた。大波が来たとみるまに、
  わたしの船の両舷は大波をかぶった。
  自分の船はまだ無事に親船につながっているか心配になった。



両親に愛され、支えられてはいるが、
甘やかされていない健康な子どもは、
こうした不安や危険に直面することがあっても、
なお成長発展してゆくであろう。
しかも外傷とか、ことさら反抗的である
といったような顕著な徴候は見えないかもしれない。


子どもが新しく一人立ちしようとしているとき、
わずかな支えも与えられないほど 両親が意識的ないし無意識的に、
自分たちだけの目的や快楽のために子どもを利用したり、
子どもを憎んだり、拒否するようなとき、

子どもは両親にしがみついて、
拒絶と頑固さという形でのみ独立心を満足することになる。


子どもが試験的に、「いや」とはじめて言いだすとき
両親が、子どもを愛し、勇気づけるよりも、
かえって子どもをぶつようなことがあれば
その後、子どもは、
ほんとうの独立できる力の表現としてではなく、
単なる反抗として、「いや」というであろう。


あるいは、今日多くのケースに見られるように、
もし両親自身が、
揺れ動く時代の波に押しまくられ、
どうしようもない不安状態に投げ込まれ、
自分自身に自信がもてず、自己疑惑に悩んでいる
とすれば、
この両親の不安は子どもに伝わり、子どもを支配し、
子どもは、(*自分も)
進んで自己成しようとすることが危険な世界 に生きている
と思うようになる。


 この簡単スケッチは、確かに図式的である
それは大人のわれわれが、自己の成長過程を反省してみるためのものであって、
この図式に照らしてみると、
どのようにしてわれわれが自己形成に失敗するか がいっそうよくわかる。


これら自己認識の葛藤に関するデータの大部分は、
大人になってから出てくるものである。

過去の生活内で、
完全な人間形成を試みるにあたって彼らの成長を阻んだもの

を克服しようと、
夢や記憶 ないし今日のさまざまな対人間関係の中で、
たたかっている大人のものである。



ほとんどすべての大人が、多かれ少なかれ、
長い間にわたって 家族内での幼児体験において設定されたパターン
を基礎にして、自己を形成しようと
現にたたかっているのである。





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第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び Empty #4

投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:21 am


       自己意識-人間の独自性 (3)


(*私は)ひとときも、自己は常に社会的コンテキストの中で生まれるものである
という事実を見逃しはしない。


自己意識の発生をさかのぼって考えるとき、それはオーデンの句の通りである。

     …というのは、他人が
     必要があって名前で呼んでくれるようになるまで
     自己は夢に過ぎない。





自己は対他者関係の場で生まれ、かつ成長するものである。
しかし、
自己意識がもっぱら自己のまわりの社会関係
(sosial context)の反射にすぎないのなら
「自己」は責任ある独自な個我には、ならない


順応
(confomity)の強調が
かえって自己を破壊している今の社会、
すなわち、

パターンに適合することをもって生きる規範とされ、
十分気に入られる ということが救済を約束するような社会にあって、
とくに力説しなければならないことは、
われわれの自己は
他者との相互作用
によってある程度形成されるという事実を認めるだけでなく、
われわれの 自己を体験し、想像する能力 もまた こうした相互の働きによって生まれる
ということである。


年齢のいかんを問わず、自力による人間形成や 自己の確立が、
幼児に始まって、成人まで続く、いかに独自な発達過程であるかを強調しておこう。
しかも 
そこに含まれる危険がおそろしい不安の原因となりうるのである。

多くの人々が
葛藤を抑圧し、全生涯にわたって、その不安からの逃避を試みる 
のも不思議ではない。





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第2部_ 第3章Ⅰ 「人間形成」自己意識:喜び Empty #5

投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:22 am


       自己意識-人間の独自性 (4)


  自己を、一個の自己自身として体験する
  ということは、何を意味するのか。



自己を
他人ではない現にこうしてここにいる自分だと体験することは
われわれはすべて心理学的な存在者として ともに出発するのだ 
という基本的な確信である。

それは、決して論理的な意味での証明にはならない。

自己自らの存在を自ら認識するという働きの中には、
いつでも神秘の要素がひそんでいるようだ。
自己意識として自己自身の同一性について思いめぐらすこと自体、
人はすでに自己意識の働きに参与していることになるからである。


  心理学者や哲学者の中には、自己意識(自我)の概念に疑問を抱いている人もいる


そういう人たちが自己意識〈自我)の概念に反対するのは、
人間も動物との連続性の中で見ようとするがためである。
彼らは自己意識(自我)の概念は科学的な実験の妨げになるものとみている。

自己意識(自我)の概念が数学的な方程式に還元できないからといって、
それを非科学的として拒否することは、
「無意識」的動機づけに関するフロイドの理論や概念を
「非科学的」であるときめつけた二、三十年前の議論とよく似ている。

特定の科学的方法をプロクラスティーズの寝台として用い、
それに当てはまらないあらゆる形の人間経験を拒否してしまうのは、
自己防衛的な、独断的科学であって、それゆえ真の科学とはいえない。



たしかに、人間と動物との間の連続性は、否定しがたい明白な事実である。
だからといって、人間と動物の間にはなんの区別がないというような結論へ
飛躍する必要はない。


われわれの自己意識を、一個のモノ(object)として証明する必要はない。
ただ必要なことは、
人間には、どのような自己関与
(self-relatedness)能力がそなわっているか
を 説明することである。

自己意識は、 
その個体内にあって
組織化する機能であり、
それによって 一人の人間として
他者との関係づけを可能にする機能
 でもある

自己意識(自我)はわれわれのもっている科学の対象ではなく、
それに先立つものである。 すなわち
われわれが科学者になりうるという事実の中に、
すでに自己意識(自我)が前提されている。


  人間経験は、いついかなる瞬間においても
その経験を理解しようとする個々の手段方法の らち外にある。
自己意識としての自己同一性 を理解する 最上の方法は、
自分自身の経験を よく省察してみること である。


たとえば、
自己意識〈自我)の概念を否定するための論文 を書いている心理学者なり、
哲学者なりの内的体験を考えてみよう。


  数週間にわたって、彼は
  この論文著述のことを考え続けている。
  彼はやがて近い将来、机に向かってせっせと執筆している自分の姿を
  何度となく思いえがく。 
  時には実際書き始める前にも、またその後 
  論文にとりかかって机に向かってからも、同僚がこの論文について言い出しそうなことを 
  あれこれ空想する。

  だれそれ教授はこれを褒めてくれるだろうか。
  また別の同僚たちは、「これはなんとスバラシイ」といってくれるだろうか。
  また別の連中は、つまらないものとけなすのではあるまいか等々、
  いろんな場面が浮かんでくる。




何を思いうかべようと、彼がそこに見ているものは、
道を横断してゆく同僚を見るようにあざやかな、同一人としての
自分自身の姿にほかならない。
自己意識に反対する論議を展開しようとするこの学者の
思考作用すべてが、まさに自己の中の意識性そのものを証明しているではないか。




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投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:23 am


       自己意識-人間の独自性 (5)


自己への気づき(自我)としての 自己同一性の意識 は
確かに知的な概念ではない。


 フランスの哲学者デカルトは三世紀前、伝説によれば
 人間存在に関する基本原理を見いだしたい、と、
 終日、一人で思索のためストーブの中へ這いこんだといわれる。
 そして夕方には、
 我思う、ゆえにわれありというあの有名な結論をたずさえ
 ストーブから出てきたという。



すなわちわれわれは考える生物であるため、自己として存在する。
しかしこれで十分ではない。


人はだれ一人として、自分を一個の観念だとは決して考えない。
われわれはむしろ、
論文を書いている心理学者 といったふうに、
なにかをやっているものとして自分自身を思い描いている。


しかもそのとき、
われわれは想像の世界で、自分が
現実にそのことがらをやっているとき経験すると思われる感情
を味わう。


  すなわち、
思考-直観-行動 
といった統一体として自己自身を経験する。

  自己意識は、このように
  自己の演ずるさまざまな役割の総計ではなく、
  自分がこれら役割を演じていること 
  を承知していることのできる能力
そのもの である。

  自己意識は一つのセンターであって、
  そこから、われわれは自分自身のいわゆるいろんな「側面」
  を観察したり、認識したりする。



いま多分に調子の高い言い方をしたが、注意をしておきたいことは、
要するに、
自己同一性の体験 ないし 人間が形成されるということは、
人生におけるもっとも深い体験であるにしても、
それは同時にもっとも単純な体験である
  ということである。

よく知られているように、幼児は、
彼をからかい半分に、間違った名前で呼ぶと憤然として
はげしい反応にでる。

それはあたかも、
その子どもの自己同一性、
すなわち、子どもにとってもっとも大切なものを取り去るようなものである


旧訳聖書の、「彼らの名を消し去ろう」 という句は(*申命記第9章14節)
彼らの同一性をまっ殺すること、
彼らを全くなかったものごとくあつかうことでもあって
肉体的な死にもまして、はるかにおそろしいおびやかしである。




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投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:24 am


       自己意識-人間の独自性 (6)


  すべての生物体はそれぞれ生涯かけてのただ一つの欲求をもっている

それは、自己自身の潜在力の実現 という欲求である。

どんくりは柏の木になり、仔犬は成長して一人前の犬になり、
その犬にふさわしい飼い主との愛情のこもった忠実な関係を結ぶ。
そしてこれが柏の木や犬の求めている総てである。

しかし、
自己の本姓を実現するという人間の仕事は、
もっとはるかに至難のわざである。

というのは、
人間は、自覚の上に立って
自己の実現をはからねばならないからである。

それというのも、自己意識の発達は決して自動的に行われるものではなく、
J・S・ミル
人間が生涯にわたって完成し、美化しなければならぬものは多いが、
 その中で第一に重要なものは、人間それ自身の完成であり、美化である。

と述べ
 ・・・ 人間性、というものは、模型によって作られ、
 処方どおりにやってできあがる機械ではなくて
 その木を生あるものにしている内なる力の向かうところ、
 あらゆる方面に自己を展開し、成長してゆこうとする一本の木
 
とたとえている。

これはたしかにすばらしい比喩である。
しかし、残念なことに、J・S・ミルはその
「人間のもつ内なる力のうちで」もっとも大切な傾向を
見落としている。

すなわち、
人間は木のように自動的に成長するものではなく、
その 潜在力を、自己認識の上にたって立案し、選択するものである
という点を見落としている。
 


幸いなことに、人間には、
土の上に落ちるやいなや独立を強いられるどんぐり、あるいは
生後数週間で、自活しなければならない小犬の状態とは対照的に、
長期にわたる幼少期が、この困難な仕事のための準備期間として
与えられている。

人間は、自らの選択と決断を始めねばならなくなったとき、
それができるだけの智慧や内なる力を獲得できるようになっている。
それだけではなく、
人間はあくまでほかに頼るのではなく、個人でものごとを選択してゆかねばならない。

というのは、
個の独自性(individuality)ということは、
自己を自分で意識しているという事実の
一面をいいあらわしてものに過ぎない。

自己を意識するということは、
常にユニークな行為であって、
私はあなたがあなた自身をどのように見ていらっしゃるか 正確にはわからないし、
あなたもまた、私が私自身にいかに関係しているかを決して正確に知ることはできない


これは 各自が一人して立たねばならぬ
内なる聖所である。


この事実が人間生活における多くの悲劇や
まぬがれがたい孤独 を生んでいるのである



しかし、それはまたわれわれ個々人に、
一人一人で 自己自身の内的聖所に立つべき力を
自らの内に見いださねばならぬことを示している。


そしてこの事実の意味するところは、
われわれは、ほっておけば、自然に仲間と融和してゆくのではなく、
それぞれ各自の自己を確認して、はじめて、相互に愛し合うことも
学びとらねばならない ということである。







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投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:25 am


       自己意識-人間の独自性 (7)



  たとえ、いかなる生物体でも、潜在力の実現に失敗すれば
  病気になってしまう。



それはちょうど、
人間が、全然歩かなくなると、歩行力が弱まってしまうのに
似ている。

しかしこのとき、
人間から失われるのは足の力だけではない。
血行、心臓の活動など 全有機体が弱体化してしまう。


これと同じく、
もし人間が人間としての潜在力の実現につとめないなら、
人間はそれだけ萎縮し、病気になってしまう。
これが神経症の本質である。


すなわち
(過去および現在の)環境内にある 敵対的条件や
彼自身の内面化された葛藤 によって阻止され、
用いられなくなってしまった潜在力は 内面へ向かい、
病的状況の原因をつくる。



カフカは、
その潜在力を用いず、それゆえ人であることの意味を喪失してしまう人物
を描き出すという不気味な仕事のできる巨匠である。


「審判」や「城」の主人公には名前がつけられていない。
ほかと区別するため頭文字がつけられているだけである。
これは当人自身の権利としての自己同一性の欠除を無言のうちに物語るものではあるまいか。

カフカは、
めまいを催すような恐ろしい寓話、「変身]」を書いているが、
そこでは、人間が自己の内なる力を失うとき、
いかなる事態が生ずるかを見事に描いている。

  この物語の主人公はうつろな現代青年の典型でもある。
  彼はセールスマンとして、きまりきった空虚な生活を繰り返している。
  同じ時刻に,暮らし向き中程度のわが家に帰り、
  日曜日には、同じメニューのローストビーフを食べている。


  青年の生活はあまりに空虚であって
  ある朝、目をさますと、人間ではなく、あぶら虫になっていた

というのがカフカの暗に述べたい意味にとれる


その青年は、
人間としての自己のあり方を自覚しなかったため
人間らしい潜在力を喪失してしまったのである。

あぶら虫は寄生動物(parasite)であって、
たいての人がいみきらうものの代表である。
ここから
人間が、人としての自己の本性を放棄するときいかなる事態が生ずるかを、
これ以上明確に示してくれるシンボルがほかにあろうか。



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投稿 by kusamura Sat May 23, 2015 8:27 am



       自己意識-人間の独自性 (7)



  たとえ、いかなる生物体でも、潜在力の実現に失敗すれば
  病気になってしまう。



それはちょうど、
人間が、全然歩かなくなると、
歩行力が弱まってしまうのに 似ている。

しかしこのとき、
人間から失われるのは足の力だけではない。
血行、心臓の活動など 全有機体が弱体化してしまう。


これと同じく、
もし人間が人間としての潜在力の実現につとめないなら、
人間はそれだけ萎縮し、病気になってしまう。
これが神経症の本質である。


すなわち
(過去および現在の)環境内にある 敵対的条件や
彼自身の内面化された葛藤 によって阻止され、
用いられなくなってしまった潜在力は 内面へ向かい、
病的状況の原因をつくる。



カフカは、
その潜在力を用いず、それゆえ人であることの意味を喪失してしまう人物
を描き出すという不気味な仕事のできる巨匠である。


「審判」や「城」の主人公には名前がつけられていない。
ほかと区別するため頭文字がつけられているだけである。
これは当人自身の権利としての自己同一性の欠除を無言のうちに物語るものではあるまいか。

カフカは、
めまいを催すような恐ろしい寓話、「変身]」を書いているが、
そこでは、人間が自己の内なる力を失うとき、
いかなる事態が生ずるかを見事に描いている。

  この物語の主人公はうつろな現代青年の典型でもある。
  彼はセールスマンとして、きまりきった空虚な生活を繰り返している。
  同じ時刻に,暮らし向き中程度のわが家に帰り、
  日曜日には、同じメニューのローストビーフを食べている。


  青年の生活はあまりに空虚であって
  ある朝、目をさますと、人間ではなく、あぶら虫になっていた

というのがカフカの暗に述べたい意味にとれる


その青年は、
人間としての自己のあり方を自覚しなかったため
人間らしい潜在力を喪失してしまったのである。

あぶら虫は寄生動物(parasite)であって、
たいての人がいみきらうものの代表である。
ここから
人間が、人としての自己の本性を放棄するときいかなる事態が生ずるかを、
これ以上明確に示してくれるシンボルがほかにあろうか。




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