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(第三章)「大洋論」~言葉の発生 母音の波だち

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(第三章)「大洋論」~言葉の発生 母音の波だち

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:09 pm



                   (一)



  人間の音声が発せられて言葉にまで分節される器官の場所は、
誰にもはっきりと指さすことができる。

まず 喉頭(腔)(のどぽとけ)で発せられた音声が、
口(腔)と鼻(腔)をぬけたり、こもったり、渦巻いたり、ひらかれたり、つぽめられたりしながら
分節された吐息になってゆく 複雑で微妙な過程のあいだに、
意味をもった種族語 あるいは 民族語の話し言葉に変わること だけは確かなことだ。

なお発生学があきらかにしていることをつけくわえれば、
この喉頭(腔)から口(腔)、鼻(腔)にかけての部分は、
腸管(鰓腸)のいちばん前端の部分でありながら、
複雑で微妙な運動と変形の感覚が高度に分化している。


喉頭(腔)(のどぼとけ)から下の
食道や胃や十二指腸の管には、
すくなくとも鋭敏な体壁系の感覚はないから、
熱い液体や固体を呑み込んでも喉頭(腔)から下ではそれほど熱さを感じない。
反対に熱さに敏感なのは、のどぽとけから上の口(腔)の部分ということになる。

ここでひとつ言うべきことが出てくる。
喉頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)までの、
言葉がそれぞれの種族語や民族語としてつくられる管腔の鋭敏な部分は、
すこしずつの相違はあっても、ヒトの類として同じ構造をもっている
そうだとすれば この同じ構造に対応する言葉の同一性は、
どこに由来するかかんがえられるべきだ。

この同じ構造に対応できる言葉の素因子があげられるとすれば、
母音がやっとそれに該当するといえる。

母音はそれぞれの民族語や種族語で八母音を数えたり、
三母音でまとめられたり、六母音だったりしている。
だがこれは ヒトの類に共通した言語の原音とみなされるもの
ヴァリェーションとかんがえてよいとおもえる。




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   一 (2) 顔

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:10 pm




 発生学者三木成夫によれば 
顔の表情は、
腸管の末端があたかも
肛門の脱肛のようにめくれ返って
腸管の内面を露出したもの にあたっている。

だから顔の表情は 
内臓管の視覚的な表象 とみなしてよいものだ。

内臓管の不全のため心がくもって不機嫌なときは、
顔の表情も色調もくもって快活な情感のときのようにはならない。

それとおなじように
喉頭(腔)(のどぼとけ)の発する音声と、
それが分節化され話し言葉になった音声は
内臓管(腸管)の聴覚的な表情といっていい。
いいかえれば
声は音声でできた顔の表情であり
内臓管(腸管)がくぐもって心が萎えているときは、
音声もくぐもって活き活きしないし、
内臓管(腸管)が内攻していれば
音声も外部に向かって押し出されずに内攻する。



 わたしたちはここで、
種族語や民族語の差異を超えた母音の共通性を、
ヒトの類としての共通性に対応するという仮定にたてぱ、
その共通性は
喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての
洞腔の構造が同じということに帰着する
とかんがえるのが、いちばん理に適っているようにおもえる。

そしてこの仮定はもっとさきまでおしすすめることができる。

ひとつは
母音は 波のように拡がって 音声の大洋をつくる
 
というイメージだ。
そして母音が 喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)までの
微妙に変化する洞腔のあいだでつくられ、発音されたにもかかわらず、
大洋の波のような拡がりのイメージを浮べられる理由は、
この母音が 内臓管(腸管)の前端に跳びだした心の表象というだけではなく、
喉頭(腔)から口(腔)や鼻(腔)の筋肉や形態を微妙に変化させる体壁系の感覚によってつくりだされるものだからだ。

いいかえれば
母音の大洋の波がしらの拡がりは、
内臓管の表情が跳びだした心の動きを縦糸に、
また喉頭(腔)(のどぼとけ)やロ(腔)や鼻(腔)の形を変化させる
体壁系の筋肉の感覚の変化
を横糸にして
織物のように拡がるため、大洋の波のイメージになぞらえることができるのだ。

わたしたちが展開してきた論議に沿って、
それぞれの種族語や民族語における 母音の共通性と末端でのヴァリェーションが
どこから生れ、どんな根拠をもっているかをいってみれぱ、
母親と胎乳児のあいだの関係の本質
その種族や民族の習俗のわずかな、あるいはおおきな差異
のほかからは生みだされないことがわかる。

いいかえれば母音とは
胎乳児と母親の関わりの、種族や民族を超えた共通性と、
習俗の差異のつみ重なりから生みだされた
言語母型の音声にほかならないといえる。


 

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大洋論 二 (1)

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:17 pm



             (二)  


 大洋のような母音の音声の波の拡がりは、それ自体で言語といえるだろうか? 

ごく普通にいえば、
内臓(腸管)系の情感の跳びだしである心の動きと、
喉頭(腔)(のどぼとけ)から口(腔)や鼻(腔)にかけての管状の洞腔の
筋肉の動きの表出である感覚の変化 から織りあげられた母音の波は、
「概念」に折りたたまれた生命の糸と出合えないかぎり、
言語と呼ぷことはできないはずだ。

 だがここで特異なことが起りうる。
母音の波を 
言語に近い状態で感受する種族語群や民族語群と、
この母音の波を、
ただの感覚音や機械音に近い状態として感受する種族語群や民族語群とに
分極されてしまうことだ。

角田忠信の研究によれぱ(角田忠信『脳の発見』)、
母音「あ」の音声を聞かせたばあい、
日本人は左脳(言語脳)優位の状態で聴いており、
たとえば米国人は右脳(非言語脳)優位の状態で聴いていること
が確かめられている。
 (*図および解説 略 -引用者)

ここで日本人と米国人の被験者は、比喩とかんがえてよい。
日本人はポリネシア語族と旧日本語族(縄文語族)を象徴し、
米国人は、ひろく西欧のインド=ヨーロッパ語族と、もっと拡大して
旧日本語族とポリネシア語族以外の語族を象徴する とかんがえてよいことを
著者角田忠信は確定している。

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大洋論 二(2  母音と日本語)

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:18 pm





なぜ 母音の波の響きを
旧日本語族やポリネシア語族は 左脳(言語脳)優位の側で聴き
(このことは母音を言語に近い素因として聴いていることを意昧する)、
それ以外の語族では
右脳(非言語脳)優位の側で聴いているのか? 

角田忠信は、
旧日本語族やポリネシア語族では、
母音がそのまま意昧のある言語になっているために、
この母音の言語化の現象が起きたと推定している。

わたしたちはこの推定をもうすこしおしすすめることができる。


旧日本語族やポリネシア語族では、自然現象、
たとえば山や河や風の音や水の流れの音などを、
すべて擬人(神)化して 
固有名をつけて呼ぶことができる素因があり、 
また 自然現象の音を 言葉として聴く習俗のなかにあったことが、
母音の波の拡がりを 
言語野に近いイメージにしている根拠 のようにおもえてくる。


日本神話のうち旧日本語の世界を語るところでは、
「語
(こと)問ひし磐(いわ)ね樹立(このたち)、草の片葉(かきは)をも語(こと)(や)めて」(「祝詞」)
いってみれば
言葉をしゃべっていた岩や木立や、   草の葉のようなものも言葉をやめて
という世界であり、
高い山、ひくい山から落ちて泡立つ水の瀬は
「瀬織つ比売
(ひめ)という神であり、
海の潮がより集まるところは
「速開
(あき)つ比売」という神であり、
根の国のしぶきが立ちこめてひろがるところは、
「速さすらい比売」という神だということだ。


そこでは 自然現象は擬人化され、
自然物の発する音は、
言語になった音の世界だとみなされる

この特性は
母音の波の拡がりが
白然音とともに言語化された世界になぞらえられて
左脳(言語脳)優位でうけとられる世界をつくる根拠だと
みることができる。

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大洋論 二(3 シニフィアン=記号表現)

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:19 pm




 わたしたちはここで何をしようとし、
どんな問題に当面しているのだろうか。

 母音がそれだけでは意昧をなさない音声の波であるように、
母音の波の拡がりであるイメージの大洋は、
意昧をもたず、言語ともいえない世界なのだが、
それにもかかわらず
言語優位の脳で感受される
とともに
意昧(前意昧といってもよい)をもってしまう特異な領野 に当面している。

 この領野は
わたしたちに新しい地平を垣間見せているようにおもえる


たとえばソシュールや
その心的な理念化の世界であるラカン  の方向づけによれば、
いくつかの原則をとりだすことができる。

ひとつはソシュールのいうシニフィアン(*記号表現=言葉の表記や音声)は、
それだけでは意昧をもたないこと。
それにもかかわらずシニフィアン(*記号表現)という設定自体に
意昧がなくてはならないのだが、この設定が意味をもつためには、
ひとつは
シニフイアン(*記号表現)は
理由づけの不可能なヒトの存在の仕方、
たとえばヒトの存在が
男性と女性、と名づけられるものに分けられることにたいして、
シニフィアン(*記号表現)という設定が意昧をもっているらしい
こと。
もうひとつは
いつでもヒトの存在が理由づけられるところでは
シニフイアンが何か(たとえばシニフィエ(*記号内容=記号のイメージや概念・意味))を
呼び込むための素因となりうることだとおもえる。

だがソシュールや
その心的な拡がりを設定したラカンのシニフィアン(*記号表現)が、
意昧を形成するために実力を行使するものを 「神」に求めないとすれば、
「父」という概念にそれを求めるよりない。
なぜなら
「神」に求めたりすれば、「神」は言葉をつくり、
その言葉はどこかに目的因をもつ宗教的な世界 になってしまう
からだ。

またシニフィアン(*記号表現)は
はじめから 何ものも意昧する可能性がないもの 
として設定すれば、それは科学的な素因ではありうるだろうが、
外界はすべてのっぺらぽうの自然界 という以外になくなってしまい、
物質の自然を対象としてつくる ことができなくなる。


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大洋論 二(4 シニフィアン*記号内容=音声 と大洋=母音の波

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:20 pm





 わたしたちがここでかんがえてきた
母音の波の拡がりである大洋のイメージは、
ソシュールやその心理的な理念としてのラカンのシニフィアン(*記号表現=音声や文字)にはなりえたとしても、
おなじ意味はもっていない。
ただシニフィアン(*記号表現)という概念との対応をしめすことはできる。

ひと口に
「神」の代りに
擬人化され命名されたすべての「自然」の事象と現象が登場し、
「父」の代りに
胎乳児に反映された「母」の存在が登場するところに、
わたしたちの大洋のイメージがある。

そしてわたしたちが設定させたいのは
前意味的な胚芽となりうる事象と現象のすべてを包括し
母音の波をそのなかに含み
拡張され普遍化された大洋のイメージなのだ。

そのために
完全な授乳期における母と子の
心の関係と感覚の関係が織り出される場所を段階化してみなくてはならない。



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大洋論 (三)

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:21 pm



                         (三)


 完全な授乳ともいうべきものにおける母と子の関わり方、
いいかえれば母の「写し」と「刷り込み」の
乳児における織物の拡がりを、注意ぶかく数えあげてみる。


 第一に、 乳児は
   鰓腸の内臓感覚が一面にひろがった顔の表情面を押しつけて、
   母親の乳房の肌触りを四六時中、典型的にいえば一年のあいだ毎日のように体験する。
 第二に、
   乳児の舌と唇
   内臓系の鰓感覚である昧覚の奮によって
   母親の乳汁の味を知りつくし、
   同時に体壁系の舌の筋肉の微妙な動きで乳頭をとらえ、
   また乳房の表面をなめまわす感覚を体験する。
 第三に、
   乳児の
   授乳のとき母親の乳房を撫でたり把んだりして、
   触覚によって乳房の形を確かめている。
 第四に、
   口(腔)の周辺の嗅覚器である鼻(腔)は、
   母親の匂いや乳汁の香りにひらかれるし、
   はま近の距離で母親の乳房を環界の全体のように視たり、
   すこし距離をおいて母親の顔の表情を読みとったりしているとみなされる。



素因子としていえば、すくなくともこれらの
内臓系の感受性からくる心の触手と、
筋肉の動きからくる感覚の触手とは、 大脳の皮質の連合野で交錯し、
拡張された大洋のイメージを形づくっているとみなすことができよう。

この大洋のイメージの拡がりは、すこしも意味を形成しないが、その代りに
内臓(その中核をなす心臓)系の心のゆらぎの感受性のすべて
感覚器官の感応のすべてを因子として包括していることになる。

この拡張された大洋のイメージは、
言語に集約されるような意昧をもたず、それだけで意味を形成したりはしない。

だが、それにもかかわらず
心の動きと感覚のあらゆる因子を結んだ前意昧的な胚芽の状態をもっている。
そこでは
顔の表面と舌や唇と手触りのすべてが 触覚を形成し、
この触覚の薄れの度合いが距離感として視覚と協働している。
嗅覚の薄れの度合いもまた距離感や空間の拡がりの認知に、
無意識のうちに加担していることになる。

おなじことを心の動きについていえば、この
内臓系の感受性の薄れの度合いは、
記憶という作用に連合しているとみなせる。

感受性の薄れの度合いの極限で、
心の動きは記憶として認知されるといっていい。

もうひとつ発生学者の考え方から汲みとるべきことがあるとすれば
内臓感覚には自然な自働的なリズムがあり、
これは心音や呼吸のような小さな周期のリズムから、日のリズムや季節のリズムまで 多様なリズムを表出し、
体壁系の感覚もまた睡眠と覚醒のようなリズムをもち、
これは 心の動きに規範を与えることに加担し、
やがて大洋のイメージが意味形成にむかうことにつながってゆく。





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大洋論 四(1

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:22 pm



                  (四) 



 わたしたちは大洋のイメージの世界を、
ソシュールのシニフィアンやラカンのシニフィアンの意昧づけを拡大した
「父」の世界のエディプス複合とはちがい、
「母」と(胎)乳児との関係から発生した
心と感覚の錯合した 前意味的な芽ばえをもった世界とみなしてきた。

そしてその世界では
母音は言語的な皮質の優位で感受され、
また「母」の像の根源には 
あらゆる自然事象と現象を擬人化し、命名せずにはおられない
発生機の習俗が関わってくるものとみなしてきた。

それは
母音そのものが言語として意味をもつという
二重の機能をもった個有言語の世界へと
展開されてゆく。



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大洋論 四(2

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:31 pm



  だがそれ以前に、
この大洋のイメージの世界はすくなくとも二つの段階を包括している。
これをわかりやすくするために、(前)言語的な事例になぞらえてみれば、

 第一段階は、いわゆる乳児の「アワワ」言葉の段階だということができる。
 第二段階は、幼児言語の世界に対応している。


 乳児の「アワワ」言葉の世界は、
純粋な母と乳児のあいだの 内コミュニケーションの世界といっていい。
ある契機で母親が偶然、意昧をつくらない「アワワ」とか「アババ」とかいった擬音喩の音声を
乳児にむかって発音する。
すると乳児は笑いの表情と音声を発し、これに応答する。
母親はそのつぎからは乳児の笑顔を誘いだすために
おなじ「アワワ」とか「アババ」とかいう意昧をつくらぬ音声を発するだろう。
乳児はそれにたいして笑顔と笑いの音声で答える。

これは笑いについての内コミュニケーションが母親と乳児のあいだに成り立ったことを意昧している。
この内コミュニケーションのばあい、母親が意昧のある成語を発してもたぶん無効だといっていい。

乳児がいるのは 大洋のイメージの世界の渚にある水準線 であり、
意味をつくっている言葉を感受しないからだ。

このばあい、乳児にとっては「アワワ」や「アババ」は
自然の事象、現象の音とおなじに 言語脳優位で感受されるものとみなされる。
わたしは確かめたことはないが、
母音を 非言語脳優位 で感受する種族語や民族語の世界でも
「アワワ」や「アババ」が乳児の笑いの表情を誘いだすことがあるにちがいない。
ただ理路として推量すれば、
もっと純音や機械音に近い音声のほうが乳児の笑いを誘発しやすいとおもえる。

 第二段階は幼な言葉、耳言葉と呼ばれるべきものにあたっている。

これは一般的にいえば 擬音語あるいは感覚と感情の織物といえるものだ。
柳田国男(「幼言葉分類の試み」)は、この種の習俗が生みだした幼な言葉をいく種類かあげている。
そのなかからここでいう第二段階に包括させて大過ないとおもえるものをとりだしてみる。

乳児にとって身近であり、母親の言葉にすぐ感応できる家畜の例をあげれば、
関東ではニワトリをトトということがあるが、
中国以西ではトトは小犬のことだと柳田は指摘している。
このことはトトという言葉が、もとは意味を形成しない音声だったことを暗示しているとおもえる。
また
舟のことは肥前平戸ではヨイヤ、伊豆ではエンヤというが、
これは舟を海浜にひきあげるときの掛け声の擬音から生みだされたもので、
それ自体が意昧のある呼称でないとおもえる。
また母親のことは伊豆や佐渡や山形などでウンマイ、ウマヤイ、ウメアなどと幼な言葉で呼ばれているが、
柳田の指摘では 年上の女性の総称であったウバという言葉に発して、
幼児がその音を模倣し変化させたものだと推定している。
このばあい、幼児には 模倣の自覚 も 意味形成の自覚 もないとすれば、
母親の自称が反映したものだとかんがえることができる。



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大洋論 四(last

投稿 by kusamura on Thu Jul 09, 2015 4:32 pm




 柳田国男は、
幼な言葉よりもすこし年長の段階に耳言葉という分類を設定している。
いわば幼な言葉と児童語のあいだに
母親によって高次に修飾をうけ、
子どもに伝えられる言葉というべきものを指している。

たとえば幼児をいい子だといって悦ばせるとき母親が
「オタカラマンチン」と言ってみたり、ケガをして痛がっている子どもに「チチンプイプイ」
という呪いを称えながら撫でてやったり、子どもの動きにつれて「ギッコマンマ」といっ
た調子のいいたとえを称えて間拍子をとったりする言葉を指している。

母親が意識したとしても、この種の耳言葉と呼んでいるものは、
本質的には母と子の内コミュニケーションに属するもので、
その意昧では柳田国男が設定した時期よりも
ずっと乳児に近いところで想定されたもの、
大洋のイメージの波のうえに
母親が意識的に外力によってつくりだした波動のようにみなされる。


  この大洋的な心の動きと感覚の動きとが織り出す
イメージの世界には、言語がつくられるために、
このイメージに対応できるような「概念」の凝集された
天抹線が生れてこなくてはならない。

これを母親と乳児との関わりのところで
小鳥を例にいえば、
乳児が大洋のイメージのなかの小鳥と、空をとぶ実在の小鳥と、紙のうえに描かれた小鳥とを、
おなじ小烏の「概念」として同定できるようにならなくてはならない。

だが母親の乳房をなめまわし、触れたり、嗅いだり、昧わったりした
感受性と感覚の胚芽ともいうべきものの体験は、
つぎの段階ではこの「概念」の同定を容易にするにちがいない。

第一段階の「アワワ」音声の水準も
第二段階の擬音や前意昧的な音声の段階も、
この第三の段階にきて
言語としての意昧形成にむかうことになるが、
それと同時に大洋のイメージの世界は、その特色のうち、
とても重要とおもわれる波動を失ってゆくことになる。





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Re: (第三章)「大洋論」~言葉の発生 母音の波だち

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