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第十章 イノセンスと殺害 

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第十章 イノセンスと殺害  Empty 第十章 イノセンスと殺害 

投稿 by kusamura Thu May 21, 2015 1:32 am



イノセンスと殺害の問題を分析することは、
将来の新しい倫理に光が投ぜられることである


イノセンスはとりわけ

子どもに見られる寛容さ
(generosilty)であって
子どもは、大人の皮肉な見方
(cynicism)のもとになる
あの裏切り
(betrayal)をこれから体験する身なので、
まだ人を信じ信頼できるのである。

イノセンスというのは、計算づくよりも、むしろ
生命を知覚する方法であって、
ひとつの感情状態という点で「心情」
(heart)と関係しなければならない。

それは、人生において
官能性
(sensuality), 思いやり, 搾取、裏切り、 
という心の働きの可能性が
芽生えてくる以前ということで、「処女」なのである。

性的体験の欠けているということは、歴史的には、
イノセンスのシンボルととられてきた。(それはシンポルであって、内容ではない)

その上、イノセンスは、
無力さを前提条件
としている。
イノセンスのことを論じるときの問題の一つは、
この無力さがイノセンスな人間によって利用される範囲を確立することである。

問題はこうである
 - 「イノセンス」は生きるうえの戦略としてどこまで利用されるか


                                                 2009-08-12 10:04:28

kusamura
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投稿数 : 394
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第十章 イノセンスと殺害  Empty Re: 第十章 イノセンスと殺害 

投稿 by kusamura Thu May 21, 2015 2:38 am



   *(引用者註):以下、ロロ・メイは”イノセンスと暴力(殺人)”の例としてケントト州立大学銃撃事件をとりあげる。
   この事件は1970年に起きた(ロロ・メイのこの本は1972年出版)。当時、国内の各大学で反戦の抗議活動が起こり、
   オハイオ州ケント州立大学では暴動化した為、沈静化を図った連邦警備員が学生に発砲し、学生4人が死亡、9人が負傷した。
   (上記文参照元[(7番目写真キャプション)],[wiki],[ブログ])
        以下本文



1-1970年のケント州立大学での射殺事件

殺された学生4人の中2人は、全くその抗議運動に参加していなかった
...これら4人の(*州兵に射殺された)学生,,そのイノセンスの代表として、
一人を取り上げてみよう。
アリソン・クラウゼは、その射殺される前に、
ガードマンのライフルの銃身に花を一輪投げ入れた、と報道されている。
そしてこう言ったという。
『弾丸より花のほうがベターよ』


2-州兵たち

「敵」にあたる「オハイオの州兵」の若い典型的な一員のイノセンス

州兵の姉の手紙
 弟のミカエルは...自分を暴動鎮圧のために招集するのではないかと恐れて、
 その当時電話に応えるのに脅えていました。
 ...彼はベトナムに送られるのを避けるために、州兵に参加していたのです。
 ...彼は心から抗議学生が悪いとは思っていなかった。


----------------------------------------------------------

われわれが
「国」なり「社会」といったものに責任有りと考えるとき、
われわれは、国というものを、

その中に住む人びとであるわれわれに対して
いろんなことを仕掛けてくる匿名の「それ」
として想定する傾向にある。

それから、国というのは、ある程度まで、
われわれ自身の心に描いているものをかけるのに好都合な釘である。
このように、そのより深いレベルでは(われわれは)問題を避けているのである。

「断じて自分たちの作ったものでない世界」のなかで
自分たちに働きかけてくる数え切れないほどの圧力と
われわれの各自が受ける経験の影響についても私は承知している。
しかし、
我々の社会や国は、
個人としてのわれわれがそれに「条件づきで」降伏するがゆえに
このような権力を持っているのである。

われわれは、自分たちの力を引き渡し、したがって
われわれは、
無力なるがゆえに腹を立てるのである。
その程度に、われわれは自らを犠牲にするのである。

われわれが生き残れるかどうかは、
人間の意識が
主張されるかどうか、すなわち、
技術的な進歩というものを台無しにしてしまうような圧力に
対抗できるだけの力をもっているかどうか、
にかかっている。

kusamura
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投稿 by kusamura Thu May 21, 2015 3:43 am




3-ビリー・バッドの悲劇的な欠陥



メルヴィルの『ビリー・バッド』は、アリソン・クラウゼや彼女の仲間の学生のように、
イノセンスの人格化として描かれている。


「ハンサムな水夫」と呼ばれる彼は、フランスとの戦争の間に
たまたま「人権」という名の船から連れてゆかれ、軍艦「不屈」の乗組員に徴発される
清純な若者である。
メルヴィルは、彼を「処女のよう」と呼び、しばしば彼を「天使」になぞらえている。
 
ビリーの中でメルヴィルは、明らかに
成人になってもそのまま残る子どものイノセンスを保持しようとしている。
 メルヴィルはこう書いている。

『けだし、子どもの全くのイノセンスは、子どもの純然たる無知にすぎない。
 しかも知性が増大するにつれて、そのイノセンスは多かれ少なかれ衰えていく。
 しかしビリー・バッドの中では、このようにして知性が発達していったが、他方では
 彼の素朴な心性は、その大部分が影響を受けないでそのまま残っている』


ビリーは、ただ一つはっきりした欠点を持っている。
彼は感情がひどく高揚してくると、どもるのである。
 船の先任衛兵伍長のクラガートは,,,,
ビリーの美しさやたくまない自ずからなる優雅さに魅せられるとともに、
他方では、
身についた純粋さや無邪気さ(イノセンス)のゆえにビリーを憎んでいるのである。


イノセンスは、
われわれから何かを期待し、何かを要求し、
世話をしたり、食物を与えたりするわれわれの傾向を引き出す。
しかも、多くの男性や女性は
自分自身のなかにあるこうした傾向を憎み、
さらに、これらの傾向に基づいて行動を起こさせるようなものを憎むのである。

われわれが、本物の子どもっぽいイノセンスに直面したとき、
われわれは、イノセンスに感動させられ、子どもを護ろうとする。
しかしわれわれの希望は、
彼が自らを守り得る年齢に成長してくれることである。

本当のイノセンスは、ある種の善良さであって
これはまた多くの人びとをアンビバレンツな状態に投げ込むのである。
善良さはわれわれに要求をつきつける。
(しかも、人びとはひたすら善なることを愛する、
 という素朴な信念は、われわれが古代から抱いていた幻想の一つである。)

クラガートは、自分の世界の中ではかくも純粋なイノセンスに耐えられないのである。
,,,ビリーは、謀反を計画したとして、クラガートによって船長の前に告発される。
,,,クラガートが彼の罪状を繰り返しているとき、ビリーはたいへんその不正にびっくり仰天し、
そのため口ごもり、一言も言えないのである。
,,,無力な激怒の中で、ビリーの一切の情熱はクラガートを殺す一撃となる。


ケント州立大学では、その学生たちが殺されたほうの学生であったのに対し、
ビリーはクラガートを殺すような殴打を行っている。

しかしわれわれは、自分の判断なり倫理を、
ほんの一瞬の腕力の使用にかけることはできない。
(それは、われわれを、個人的な自己-統制にすっかり依存させることになるからである)
われわれは、そうしたとき、
倫理的な内容抜きに、
最後には法律尊重主義に終わる
ものである。


ビリーにしろ学生にしろ、いずれも
この世界の悪といったものを意識してはいない。
彼らは、
地上の住民の残酷さや、非人間性を目撃するのを認めてはいないし、
望んでもいなかった。

ビリーは「疑惑」とか「不信」とかの感覚を
持ち合わせていないのである。
われわれは現代世界だけでなく、

デーモン的なものの内部世界を理解する上でも不可欠なこうした性質の欠除を、
ビリーの性格的な欠陥と見なさなければならない。


メルヴィルは   
「イノセンスは、彼の目をくらますもの
(blinder)」であるという。
,,,ビリーの中には、見たくない、という欲求があったに違いない。
,,,ビリーは、質問のために船長の事務所へ連れて来られるとき、
 「船長は親切そうに自分を見ている」そして彼(*船長)は
 船中で新しい、よりよいポストに任命してくれるかもしれないと考える。

 要するに、
自分のイノセンスを保存することは、
ビリーにとっては―全く無意識であったにせよ―
それによって生くべき役に立つ戦略になっていた。
もしビリーが、(*第三者に注意された役人の悪意を)意識していたならば
『彼の視覚は鋭くならないまでも浄化されていたかもしれない』


彼は自分の目をくらますものによって、
見ることあるいは知ることに失敗している。
,,,イノセンスは目をくらますものとして働き、
われわれの成長をとめ、新しい認識を妨げ、
人類のよろこびだけではなく、苦悩との同一化を妨げる
(両方ともイノセントな人物にとっては無縁なものである)。


イノセンスなままにとどまり、自分に訴えかけてこないものを描き出し
(block out)
エデンの園の状態を保存しようと努力するか、...
自分のまわりのクラガートを含む他人に対し、
自分の行為が与える結果について感ずるための
背禁をまぬがれうるのであろうか―,,,
自分から他へ拡がっていく波に気づかずに、
自分自身の確信や自分自身の高潔さ
(integrity)だけの上に建てられる
楽しそうな存在についてはどうか。

これはわれわれの相互依存的な世界では、
たとえ正しいものとして賞賛されるにしても、
もはや受け入れられない非現実的な純粋さではなかろうか。
,,,この種のイノセンスは、
その目的として何ものかをおおいかくさなければならない

それは、その人物がもはや子どもではないときの子どものイノセンスである。
世界を体験できる能力を持つことによって、
われわれは、同時に
その体験に対し自らの感受性を閉ざさないでおく
という責任をもつことになる。




kusamura
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投稿 by kusamura Thu May 21, 2015 3:45 am




4-処女とドラゴン

なぜわれわれは、いつでもイノセンスなものを犠牲にするのであろうか。

社会は、それ(*罪や悪)を森の中のドラゴンに投影することによって
社会自身の悪から自らをまぬかれようとする。
しかも社会は、処女と若者を
年ごとに貢物としてドラゴンに捧げることによって、ドラゴンに対処するのである。

人間を食べる生き物にはイノセンスなものは特別魅力がある。
その生物は、経験のあるものより、やさしいもの、よるべなきもの、力なきもの
を愛するのである。


今日の誇り高き現代文明な中にいるわれわれは、
「原始的な人身御供を超克した」とは一瞬間も考えてはならない。
われわれもまだそれを行っている―しかもたった七人ではなく、何万人という単位で。

(*この論述が書かれた当時のベトナム戦争における アメリカの若者とベトナム人の死者、 併せて数百万人―とロロメイは書いている―を指す)

われわれがそうした犠牲を捧げる神の名は、モロク(moloch)である。
現代のモロクは貪欲である。
どんな手段で、われわれは、
内なる大きな攻撃性や暴力を投影しようとするのか
―われわれはそれを、抗議、内的葛藤、断念、アバティ(無気力)でもって行っている。

権力機構が、その生き方が自分たちより立派な若者を嫉み(envious),
イノセンスなものを妬んでいることは明かである。


このことはとりわけアメリカにおいては、若者崇拝によって悪化している。
つねに若さに勝る良いものはないのである。
自分たちのイノセンスをとっくに失ってしまった年長者たちは、
こうした汚れない若者が戦うことを余儀なくされる戦いを宣言する。

安定せる生き方を代表する地位の確立している人たちもまた、
若者を恐れている。このことはとりわけわれわれの生きている
今日という時代(*ヒッピームーブメントや反戦、ロックなどが盛んだった1970年代のアメリカ)
では明らかである。
すなわち、羨望と恐怖―これが犠牲を呼び起こす二つの動機である。


よくわかることは、
人間生活にはイノセンスを乗り越えたいという衝動が内在しているように見えることである。
それは、ある不思議な仕方で、自分たちが
かくも容易に犠牲になってしまうような年齢を超克したい、という衝動に関係しているのだろうか。



正常な子どもは、成長し、自分の廻りにあることを体験し、
世慣れた人間になりたがる。,,,独立独行できる年齢をあこがれる。
十歳代にはいったばかりの少女が示すなまめかしさも、そのほとんどが
当人には全く意識されていないんものであるが、イノセンスを越えたいという
古くからの衝動という形でのドラマの一部である。

性的体験が、イノセンス喪失や、「体験」達成のシンボルとしてとられることは偶然ではない。
若い年齢で処女性を脱したいという無謀な奮発行為は、
経験の獲得というよりもむしろその喪失という、逆効果を生む可能性のほうが高い。
(私の女性患者の何人かは処女性を奪った男性に向かって 「それで全てなの?」
 と問いかけている)



求めているものは体験への叫びであり、それは
いままで持っていたイノセンスを埋め合わせできるような体験を
求め続ける叫びである。
 
     






kusamura
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